半田博物館 「からくり」 | 南組南車michyウェブサイト「私の祭記録」 -祭・山車・囃子情報、各地の山車祭リポート-

michyが所属する南組南車は、宝暦二年 成岩町(現・半田市成岩地区)に初めて創建された山車です。今から、250年以上の歴史ある山車、山車組に関連する情報を中心に、各地の山車祭情報を発信する個人管理のページです。あくまで個人的に製作したものなので、南組とは一切関係ありません。





半田博物館 「からくり」 資料 列品解説より

乙川祭礼山車絵図

この絵図は、宝暦五年(1755)尾張藩からの触状によって作成されたもので、
当時の祭礼行事と御輿や山車の古い様式を伝えるものである。

“半田市 乙川八幡社蔵”

八幡宮祭礼式の図

乙川祭礼山車絵図と同種のもので、宝暦五年(1755)の御輿渡御の様子を示す。

“知多市 尾張八幡神社蔵”


半田のからくりの生まれ

鬼頭 秀明 先生の文章を 私なりに読み込んでみました。

山車からくりのはじめ

尾張のからくり人形の歴史は『大山』『車楽(だんじり)』という、
初期山車文化の頃から始まる。

熱田、津島の『大山』が有名だったが、明治以降途絶えてしまった。

その後、慶長15年(1610)より 山車からくり文化が栄える。

当時の大山からくり人形は
立居人形(=神の化身)を、『手』と『首』だけ動くようにした
簡単な滑車仕掛けのものだった。

この大山からくり人形の下地があったおかげで
上方から新しい技術が伝わってきても
容易に取り入れ、独自に改良を進められた。

城下町の名古屋三大祭り(東照宮、若宮八幡社、三の丸天王社)と
ともにからくりは 発達。

☆東照宮にて
元和6年(1620) 名古屋で初めて山車からくり『橋弁慶』が乗る。
当時は 屋根のない1層の山車であった。
(万治元年(1658)に二層外輪の『名古屋型』の山車が登場してくる)

尾張地方の山車の構造

①名古屋型=二層
大将人形と呼ばれる手と首だけが動く人形=後身体的な意味をもつ(大山以来の伝統)

②犬山型=三層
③知多型=二層
②も③も 唐破風を四本柱で支えて 主役のからくりの踊る舞台とする。=前壇

・・・続く


からくりの技術発展

鬼頭 秀明 先生の文章を 私なりに読み込んでみました。・・・続き

上方から興行を専門にした『竹田からくり』の技術が伝わる。

享保16年(1731)頃

幕府より『質素倹約政策』が布かれていたにも関わらず 尾張七代藩主『徳川宗春』は 当時簡略化されていた東照宮祭礼を享保8年の頃の姿に戻したり、 芝居小屋や遊郭の設置を 許可した

そのおかげで 尾張藩は 三都に勝る繁栄ぶりであった

…宗春の目に余る行動は 幕府から蟄居を命ぜられてしまう

が!!!

すでに名古屋には自由化されたときに各地より技術者が集まっていた。
その集団は 活躍できる時をじっと待ち、
後に名古屋独特な産業・文化が発達することとなる。

名古屋で生まれた人形たちは 全国各地に広く流れていく
名古屋とは異なる山車の形態の地方でも歓迎された

からくり人形は 主に『糸』と『サシガネ』を使っている。

①糸からくり系
人形が通常の動きや舞などを行うもの

②変身系
面かぶり、人体から祠や橋などに変化 袋から出現など
③倒立系
倒立芸を演ずるもの

④肩車・宙づり系
大木隅が小木隅を肩車し、小木隅が宙づりになるもの
⑤特殊系
乱杭渡り、綾渡り、大車輪文字書きなど
『サシガネ』とは 人形が動くように特殊仕掛けのある棒
①糸からくり
②〜⑤離れからくり
単独で芸を演じる、数種類のからくりを組み合わせて芝居まで演じるものもある。
…知立の人形芝居
…美浜の上野間 など

からくり人形は 毎年の祭礼で 同じ内容を奉納するが
同じように操ることはできない

ここに 人々が愛し、飽きないところがある。


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