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	<title>南組南車michyウェブサイト「私の祭記録」　-祭・山車・囃子情報、各地の山車祭リポート- &#187; 資料集</title>
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	<description>michyが所属する南組南車は、宝暦二年 成岩町(現・半田市成岩地区)に初めて創建された山車です。今から、250年以上の歴史ある山車、山車組に関連する情報を中心に、各地の山車祭情報を発信する個人管理のページです。あくまで個人的に製作したものなので、南組とは一切関係ありません。</description>
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		<title>はんだ　交通の発達</title>
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		<pubDate>Fri, 02 May 2008 16:11:52 +0000</pubDate>
		<dc:creator>michy</dc:creator>
				<category><![CDATA[はんだ]]></category>

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		<description><![CDATA[三河と伊勢を結ぶルート


三河⇒英比湊か小河湊へ渡り、半島を横断して⇒大野港⇒伊勢
三河⇒成岩⇒常滑大野⇒伊勢

このルートは、当時、知多全域を治めていた一色氏が積極的に発展させたとされる。
(大野を治めることで、急激 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3>三河と伊勢を結ぶルート</h3>
<p><img src="http://nansya.net/cms/wp-content/uploads/2008/05/root.gif" alt="知多半島の交通" title="知多半島の交通" width="224" height="333" class="alignnone size-full wp-image-1257" /></p>
<ul>
<li>三河⇒英比湊か小河湊へ渡り、半島を横断して⇒大野港⇒伊勢</li>
<li>三河⇒成岩⇒常滑大野⇒伊勢</li>
</ul>
<p>このルートは、当時、知多全域を治めていた一色氏が積極的に発展させたとされる。<br />
(大野を治めることで、急激に一色氏は勢力をのばしていていった）</p>
]]></content:encoded>
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		<title>はんだ　村の発展</title>
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		<pubDate>Fri, 02 May 2008 16:10:30 +0000</pubDate>
		<dc:creator>michy</dc:creator>
				<category><![CDATA[はんだ]]></category>

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		<description><![CDATA[人口
昭和12年に半田町・亀崎町・成岩町が合併し半田市となったのだが、成岩町自体も明治22年（1980）に町制をしかれたあとに作られた町であり、それ以前は成岩村とされ、贄代郷の常滑領に属していた。しかし、尾張志（天保14 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3>人口</h3>
<p>昭和12年に半田町・亀崎町・成岩町が合併し半田市となったのだが、成岩町自体も明治22年（1980）に町制をしかれたあとに作られた町であり、それ以前は成岩村とされ、贄代郷の常滑領に属していた。しかし、尾張志（天保14年　1843）によれば、成岩村は本郷と「板山」「西成岩」「北荒井」の三枝邑を有すると記されている。</p>
<p>成岩村手鑑、半田市誌によれば、</p>
<dl>
<dt>寛文11年（1671）</dt>
<dd>戸数　365戸</dd>
<dd>人口　3063人</dd>
<dt>元禄6年（1964）</dt>
<dd>家敷　590軒</dd>
<dd>人口　3445人</dd>
</dl>
<p>現在の成岩3区のある場所はほとんどが海（下記参考）で、神社、南憩いの家、無量寿寺、波寄神社のライン沿いに浜であったため人は住んでいなかった。新田の改修により他からの移住者が増えた。</p>
<dl>
<dt>享保9年（1725）</dt>
<dd>家敷　760軒</dd>
<dd>人口　4208人</dd>
<dt>文政5年（1822）</dt>
<dd>戸数　1076戸</dd>
<dd>人口　4945人</dd>
<dd>人口12,938人</dd>
<dt>昭和8年</dt>
<dd>戸数　2771戸</dd>
<dd>人口12,938人</dd>
</dl>
<p>参考：武豊町字馬場から本町字保示田、内濱田、東西馬場から長沼、青木、天神田の一部、東西神田の一部、大畑、仲奥、蓮根、宮前の一部、西家下、南瀬古の一部、南家下、寺坊より中島に至る一帯の低地は昔は海水が浸入していたところである。（成岩町史より）</p>
<h3>新田の開拓</h3>
<p><img src="http://nansya.net/cms/wp-content/uploads/2008/05/kaitaku.gif" alt="新田の開拓" title="新田の開拓" width="313" height="212" class="alignnone size-full wp-image-1260" /><br />
明治23年にできた成岩町は、板山　西成岩・彦津　馬場・南組　北村　北荒居（現在の協和）の５区で区切られている。明治4年廃藩置県が行われた。</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>半田博物館 「からくり」 資料 列品解説より</title>
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		<pubDate>Fri, 02 May 2008 16:09:03 +0000</pubDate>
		<dc:creator>michy</dc:creator>
				<category><![CDATA[半田博物館 「からくり」]]></category>

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		<description><![CDATA[乙川祭礼山車絵図
この絵図は、宝暦五年（1755）尾張藩からの触状によって作成されたもので、
当時の祭礼行事と御輿や山車の古い様式を伝えるものである。
“半田市　乙川八幡社蔵”
八幡宮祭礼式の図
乙川祭礼山車絵図と同種の [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3>乙川祭礼山車絵図</h3>
<p>この絵図は、宝暦五年（1755）尾張藩からの触状によって作成されたもので、<br />
当時の祭礼行事と御輿や山車の古い様式を伝えるものである。</p>
<p>“半田市　乙川八幡社蔵”</p>
<h3>八幡宮祭礼式の図</h3>
<p>乙川祭礼山車絵図と同種のもので、宝暦五年（1755）の御輿渡御の様子を示す。</p>
<p>“知多市　尾張八幡神社蔵”</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>半田のからくりの生まれ</title>
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		<pubDate>Fri, 02 May 2008 16:08:03 +0000</pubDate>
		<dc:creator>michy</dc:creator>
				<category><![CDATA[半田博物館 「からくり」]]></category>

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		<description><![CDATA[鬼頭　秀明　先生の文章を　私なりに読み込んでみました。
山車からくりのはじめ
尾張のからくり人形の歴史は『大山』『車楽（だんじり）』という、初期山車文化の頃から始まる。
熱田、津島の『大山』が有名だったが、明治以降途絶え [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>鬼頭　秀明　先生の文章を　私なりに読み込んでみました。</p>
<h3>山車からくりのはじめ</h3>
<p>尾張のからくり人形の歴史は『大山』『車楽（だんじり）』という、初期山車文化の頃から始まる。<br />
熱田、津島の『大山』が有名だったが、明治以降途絶えてしまった。<br />
その後、慶長15年（1610）より　山車からくり文化が栄える。<br />
当時の大山からくり人形は、立居人形（＝神の化身）を、『手』と『首』だけ動くようにした。<br />
簡単な滑車仕掛けのものだった。<br />
この大山からくり人形の下地があったおかげで、上方から新しい技術が伝わってきても容易に取り入れ、独自に改良を進められた。<br />
城下町の名古屋三大祭り（東照宮、若宮八幡社、三の丸天王社）と、ともにからくりは　発達。</p>
<h4>東照宮にて</h4>
<p>元和6年（1620）　名古屋で初めて山車からくり『橋弁慶』が乗る。<br />
当時は　屋根のない１層の山車であった。<br />
（万治元年（1658）に二層外輪の『名古屋型』の山車が登場してくる）</p>
<h3>尾張地方の山車の構造</h3>
<dl>
<dt>（1）名古屋型</dt>
<dd>二層<br />大将人形と呼ばれる手と首だけが動く人形＝後身体的な意味をもつ（大山以来の伝統）</dd>
<dt>（2）犬山型</dt>
<dd>三層</dd>
<dt>（3）知多型</dt>
<dd>二層</dd>
</dl>
<p>（2）も（3）も　唐破風を四本柱で支えて　主役のからくりの踊る舞台とする。＝前壇</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>からくりの技術発展</title>
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		<pubDate>Fri, 02 May 2008 16:06:57 +0000</pubDate>
		<dc:creator>michy</dc:creator>
				<category><![CDATA[半田博物館 「からくり」]]></category>

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		<description><![CDATA[鬼頭　秀明　先生の文章を　私なりに読み込んでみました。
上方から興行を専門にした『竹田からくり』の技術が伝わる。
享保16年（1731）頃
幕府より『質素倹約政策』が布かれていたにも関わらず 尾張七代藩主『徳川宗春』は　 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>鬼頭　秀明　先生の文章を　私なりに読み込んでみました。</p>
<p>上方から興行を専門にした『竹田からくり』の技術が伝わる。</p>
<p>享保16年（1731）頃<br />
幕府より『質素倹約政策』が布かれていたにも関わらず 尾張七代藩主『徳川宗春』は　当時簡略化されていた東照宮祭礼を享保8年の頃の姿に戻したり、 芝居小屋や遊郭の設置を許可した<br />
そのおかげで　尾張藩は　三都に勝る繁栄ぶりであった<br />
…宗春の目に余る行動は　幕府から蟄居を命ぜられてしまう</p>
<p>が！！！</p>
<p>すでに名古屋には自由化されたときに各地より技術者が集まっていた。<br />
その集団は　活躍できる時をじっと待ち、<br />
後に名古屋独特な産業･文化が発達することとなる。</p>
<p>名古屋で生まれた人形たちは　全国各地に広く流れていく<br />
名古屋とは異なる山車の形態の地方でも歓迎された</p>
<p>からくり人形は　主に『糸』と『サシガネ』を使っている。</p>
<dl>
<dt>（1）糸からくり系</dt>
<dd>人形が通常の動きや舞などを行うもの</dd>
<dt>（2）変身系</dt>
<dd>面かぶり、人体から祠や橋などに変化　袋から出現など</dd>
<dt>（3）倒立系</dt>
<dd>倒立芸を演ずるもの</dd>
<dt>（4）肩車・宙づり系</dt>
<dd>大木隅が小木隅を肩車し、小木隅が宙づりになるもの</dd>
<dt>（5）特殊系</dt>
<dd>乱杭渡り、綾渡り、大車輪文字書きなど</dd>
</dl>
<p>『サシガネ』とは　人形が動くように特殊仕掛けのある棒<br />
（1）糸からくり<br />
（2）～（5）離れからくり<br />
単独で芸を演じる、数種類のからくりを組み合わせて芝居まで演じるものもある。<br />
…知立の人形芝居<br />
…美浜の上野間　など</p>
<p>からくり人形は　毎年の祭礼で　同じ内容を奉納するが同じように操ることはできない</p>
<p>ここに　人々が愛し、飽きないところがある。</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>人形と祭の関係</title>
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		<pubDate>Fri, 02 May 2008 16:05:20 +0000</pubDate>
		<dc:creator>michy</dc:creator>
				<category><![CDATA[半田博物館 「からくり」]]></category>

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		<description><![CDATA[西角井　正太　筆　より　私なりに　解釈した内容を　以下に示す。
『人形に人間の穢れを移して河や海に流してしまうという考え方がある。』
現在でも六月祓え（みなづきばらえ）という呪法の一つが残っている。
穢れを移すのには、人 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>西角井　正太　筆　より　私なりに　解釈した内容を　以下に示す。</p>
<p>『人形に人間の穢れを移して河や海に流してしまうという考え方がある。』<br />
現在でも六月祓え（みなづきばらえ）という呪法の一つが残っている。</p>
<p>穢れを移すのには、人形で体を撫でる（撫づる）＝から『夏（ナツ）』の語源ではないか（現在有力）</p>
<p>この考え方から<br />
山車に飾った人形に体に溜まった悪しきものを持っていってもらおう<br />
↓↓↓<br />
山車人形は＝祟る神をおだてるため美しい形（風流）にしなければならない。</p>
<ul>
<li>今から約330年ほど前、大阪『竹田からくり』の出現！（振子の原理によるもの）</li>
<li>時計技術の応用『津田家』尾張藩御用時計</li>
</ul>
<p>上の二つより　名古屋でからくり人形が流行る。</p>
<h3>山車からくり　大別</h3>
<dl>
<dt>（1）人間と同じような動作をするもの</dt>
<dd>（舞う、文字を書く、太鼓を叩く…など）</dd>
<dt>（2）普通の人間にできない軽業をするもの</dt>
<dd>（逆立ち、肩車、乱杭渡り…など）＝放れ業</dd>
<dt>（3）人間にはできないことをするもの</dt>
<dd>（他の人物へ、霊体へ、社殿へ変化するもの）＝変身業</dd>
<dt>（4）芝居をする</dt>
<dd>（（1）（2）（3）の複合系）</dd>
</dl>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>祭の起源は、疫病神を追っ払う？</title>
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		<pubDate>Fri, 02 May 2008 16:04:23 +0000</pubDate>
		<dc:creator>michy</dc:creator>
				<category><![CDATA[半田博物館 「からくり」]]></category>

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		<description><![CDATA[西角井　正太　筆　より　私なりに　解釈した内容を　以下に示す。
『季節の移り変わりは、神々の往来に由来するものと考えられていた。』
良い神もいれば厄災をもたらす悪しき神も降臨することもある。
『そもそも祭りとは、悪しき神 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>西角井　正太　筆　より　私なりに　解釈した内容を　以下に示す。</p>
<p>『季節の移り変わりは、神々の往来に由来するものと考えられていた。』<br />
良い神もいれば厄災をもたらす悪しき神も降臨することもある。</p>
<p>『そもそも祭りとは、悪しき神々を鎮めるという意味を忘れてはならない。』<br />
夏の逸り病気は、赤痢など　死亡率の高いものが多い<br />
これは、疫病神の到来に由来するものだと考える←鎮めたい<br />
神々を鎮めるための儀式を『御霊会（ごりょうえ）』という<br />
代表的なものとして『祇園祭』<br />
『祇園祭』とは、鉾と山に疫神を取り付かせて送り返そうというお祭り<br />
ポイント！<br />
『鉾』と『山』は、疫神の好む形にする</p>
<p>好む形とは…<br />
鉾は高く！山は飾り立てられたもの！<br />
↓↓↓<br />
装飾豊かな作り物が芸能『風流（ふりゅう）』という</p>
<p>この『風流』が見物となり、人々に愛される祭りとなる由縁である。<br />
鉾と山はもともと手で運んでいたが、風流化が進み、重く大きくなる<br />
　　　↓↓↓<br />
『山車』（ダシ）となる</p>
<p>もともとは当て字で形から…縦に書くと</p>
<p>山<br />
車</p>
<p>なんとなく…鉾に見えてきませんか？？？<br />
現在の各地にある山車のモデルは『八坂神社の祇園祭』（1500年頃）であろうと考えられる。</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>日本神話　成岩地区の神社の神様　成岩町史　書物編　その参</title>
		<link>http://nansya.net/siryou/narawa/119</link>
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		<pubDate>Fri, 02 May 2008 16:03:39 +0000</pubDate>
		<dc:creator>michy</dc:creator>
				<category><![CDATA[成岩町史]]></category>

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		<description><![CDATA[成岩地区の神社
神社を紹介するにあたって、神様の名前見たって意味が分からないのでとりあえず…日本神話より登場人物紹介します。 簡単にね、簡単に。
イザナギ（男・兄）、イザナミ（女・妹）、この二人から神生み・国生みが始まる [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3>成岩地区の神社</h3>
<p>神社を紹介するにあたって、神様の名前見たって意味が分からないのでとりあえず…日本神話より登場人物紹介します。 簡単にね、簡単に。</p>
<p>イザナギ（男・兄）、イザナミ（女・妹）、この二人から神生み・国生みが始まる。たくさんの神々を生み、日本を形作っていく。石・木・海・水・風・山・野・火の森羅万象の神も生む。火の神カグッチを生む際にイザナミは火傷で死んでしまう。イザナギはイザナミを追い黄泉の国へ行くが、腐敗し、雷（いかづち）の乗ったイザナミの死体を怖がり、追いかけてくるイザナミから逃げ、イザナミと離縁する。<br />
黄泉の国から帰ったイザナギは禊を行った際に、右目から「ツクヨミ」、左目から「アマテラス」、鼻から「スサノオ」を生んだそうだ。これで神生みは終わりらしい。<br />
月読命（つくよみのみこと）は、性別に関する記述はなく、月を神格化した姿なので天照大神とは対。夜を治める。<br />
天照大神（あまてらすおおみかみ）は、女神で太陽を神格化した姿。高天原治める。（伊勢神宮）<br />
素盞鳴尊（すさのおのみこと）、牛頭（ごず）天皇と習合。男神。海原を治める。（津島神社　他に奉られている）<br />
素盞鳴尊が天照大神の御統玉（みすまろのたま）を請いうけて、これをかんで吐き出された息から化生した神が八柱（五男三女神で所請八王子様である）ある。なんだか二人は誓約をしたそうだよ。</p>
<ul>
<li>天忍穂耳尊（あまのおしほみみのみこと）</li>
<li>天穂日命（あまのほひのみこと）</li>
<li>天津彦根命（あまつひこねのみこと）</li>
<li>活津彦根命（いくつひこねのみこと）</li>
<li>熊野橡樟日命（くまのくすびのみこと）</li>
<li>多紀理姫命（たぎりひめのみこと）</li>
<li>湍津姫命（たきつひめのみこと）</li>
<li>市杵島姫命（いちきしまひめのみこと）</li>
</ul>
<p>きりがないからここまでね。<br />
そうそう、日本武尊ってヤマトタケルノミコトって読みます。</p>
<table border="0" cellpadding="0" cellspacing="0">
<tr>
<th rowspan="2">郷社　成石神社</th>
<td rowspan="2">天穂日尊</td>
<td>少彦名命</td>
<td rowspan="2">誉田別尊</td>
<td>素盞雄命</td>
</tr>
<tr>
<td>大己貴命</td>
<td>日本武尊</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="5">成岩町字宮前　氏子は257戸　四月十三日</td>
</tr>
<tr>
<td>&nbsp;</td>
<td class="blue">御鍬社</td>
<td>猿田彦命</td>
<td class="blue">春日社</td>
<td>武甕槌命</td>
</tr>
<tr>
<td>&nbsp;</td>
<td class="blue">山神社</td>
<td>大山祗命</td>
<td class="blue">稲荷社</td>
<td>稲倉魂命</td>
</tr>
<tr>
<td>&nbsp;</td>
<td class="blue">熊野社</td>
<td>伊弉諾命</td>
<td class="blue">天満社</td>
<td>菅原道真公</td>
</tr>
<tr>
<th>村社　成岩神社</th>
<td>誉田別尊</td>
<td>天津兒屋根命</td>
<td>豊受姫命</td>
<td>&nbsp;</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="5">成岩町字南瀬古　氏子は北村・南組・東馬場・西馬場　1200戸　例祭は古来六月十五日であったが、炎暑の時候だとて、四月十五日変更された。</td>
</tr>
<tr>
<td>&nbsp;</td>
<td class="blue">松尾社</td>
<td>大山咋命</td>
<td class="blue">御鍬社</td>
<td>猿田彦命</td>
</tr>
<tr>
<th>村社　白山神社</th>
<td>菊理姫命</td>
<td>&nbsp;</td>
<td>&nbsp;</td>
<td>&nbsp;</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="5">成岩町字白山　氏子740戸　例祭は五月六日</td>
</tr>
<tr>
<td>&nbsp;</td>
<td class="blue">龍神社</td>
<td>豊玉姫命</td>
<td class="blue">大神神社</td>
<td>豊受姫命</td>
</tr>
<tr>
<td>&nbsp;</td>
<td class="blue">龍神社</td>
<td>豊玉姫命</td>
<td class="blue">大神神社</td>
<td>豊受姫命</td>
</tr>
<tr>
<td>&nbsp;</td>
<td class="blue">山神社</td>
<td>大山祗命</td>
<td class="blue">秋葉社</td>
<td>味鋤高彦根命</td>
</tr>
<tr>
<td>&nbsp;</td>
<td class="blue">天王社</td>
<td>素盞雄命</td>
<td>&nbsp;</td>
<td>&nbsp;</td>
</tr>
<tr>
<th>村社　板山神社</th>
<td>天津兒屋根命</td>
<td>天照大神</td>
<td>應進天皇</td>
<td>&nbsp;</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="5">成岩町字五本木　氏子250戸　例祭は四月十六日</td>
</tr>
<tr>
<td>&nbsp;</td>
<td class="blue">山神社</td>
<td>大山祗命</td>
<td>&nbsp;</td>
<td>&nbsp;</td>
</tr>
<tr>
<th>村社　八幡社</th>
<td>誉田別尊</td>
<td>&nbsp;</td>
<td>&nbsp;</td>
<td>&nbsp;</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="5">成岩町字大廻間　氏子120戸　例祭四月十六日</td>
</tr>
<tr>
<td>&nbsp;</td>
<td class="blue">山神社</td>
<td>大山祗命</td>
<td>若宮八幡社</td>
<td>仁徳天皇</td>
</tr>
<tr>
<th>波寄社</th>
<td>素盞鳴命</td>
<td>&nbsp;</td>
<td>&nbsp;</td>
<td>&nbsp;</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="5">成岩町字天王瀬古　例祭六月十五日</td>
</tr>
<tr>
<td>&nbsp;</td>
<td class="blue">秋葉社</td>
<td>味鋤高彦根命</td>
<td>琴平社</td>
<td>大物主命</td>
</tr>
<tr>
<th>若宮八幡宮</th>
<td>仁徳天皇</td>
<td>&nbsp;</td>
<td>&nbsp;</td>
<td>&nbsp;</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="5">成岩町字若宮　例祭八月十五日</td>
</tr>
</table>
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		<title>知多半島　成岩各地の名称　成岩町史　書物編　その弐</title>
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		<pubDate>Fri, 02 May 2008 16:02:37 +0000</pubDate>
		<dc:creator>michy</dc:creator>
				<category><![CDATA[成岩町史]]></category>

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		<description><![CDATA[知多半島郡位置
さらに過去にさかのぼって、知多郡は神龜二年（西暦725年）に、本郷を 『蕃賀（はんが）郷』、『贄代（にえしろ）郷』、『富具（ふぐ）郷』、『但馬（たじま）郷』、『英比（あぐい）郷』の五郷としている。成岩はこ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://nansya.net/wp-content/uploads/2008/04/gogou.gif" alt="五郷" title="五郷" width="113" height="214" class="alignleft size-full wp-image-82" />知多半島郡位置<br />
さらに過去にさかのぼって、知多郡は神龜二年（西暦725年）に、本郷を 『蕃賀（はんが）郷』、『贄代（にえしろ）郷』、『富具（ふぐ）郷』、『但馬（たじま）郷』、『英比（あぐい）郷』の五郷としている。成岩はこの「中贄代郷」（半田から河和が含まれるようだ）に属している。<br />
参考：尾張の国は八つの郡に分かれていた。<br />
丹羽、葉栗、中島、海部、春日部、山田、愛智、知多<br />
左は知多五郷推定図である。</p>
<h5>贄代郷　神龜二年（西暦725年）</h5>
<dl>
<dt>常滑領</dt>
<dd>
<ul>
<li>「北條」</li>
<li>「瀬木」</li>
<li>「常滑」</li>
<li>「半田」</li>
<li>「成岩」</li>
<li>「垂水」</li>
</ul>
</dd>
<dt>西枳豆志領</dt>
<dd>
<ul>
<li>「西阿野」</li>
<li>「熊野」</li>
<li>「小場」</li>
<li>「檜原」</li>
<li>「刈谷」</li>
<li>「小鈴谷」</li>
<li>「坂井」</li>
<li>「廣目」</li>
<li>「市原」</li>
</ul>
</dd>
<dt>東枳豆志領</dt>
<dd>
<ul>
<li>「布土」</li>
<li>「富貴」</li>
<li>「東大高」</li>
<li>「大足」</li>
<li>「長尾」</li>
</ul>
</dd>
</dl>
<p>尾張志では、本郷を二十四荘に分け、成岩は常滑庄の一村とされた。この時点では、「北荒居」、「西成岩」、「小板山」の三枝邑を有していると記されている。</p>
<h5>成岩名称の由来</h5>
<dl>
<dt>奈良浪殿　説</dt>
<dd>贄代郷は伊勢神宮に隷属していた。そして伊勢神宮の橋を渡って北に政所があった。その管理者が奈良浪殿であった。</dd>
<dt>奈良志村　説</dt>
<dd>万葉集中の和歌に「奈良志丘」大和龍田川東岸と読まれた。</dd>
<dt>鳴岩　説</dt>
<dd>英比川の埴土押し流されて岩につきたる地を「岩滑」と呼び、その下流に落ち入るところの岩に濁れて鳴る地を鳴岩と呼びたるなるべし、奈利伊波をつづめて奈利波となるを、また利を良に通わせて奈良波と呼ぶ</dd>
<dt>鳴浪　説</dt>
<dd>成岩城の腰から鳥出山の下は海水が浸入して、遠く板山邊までに及び、鳴動が甚だしく、鳴波と言ったのが、後に成岩に改められたのではないか。</dd>
<dt>「成岩は奈良輪なり」　説</dt>
<dd>地名辞典より。</dd>
</dl>
<h5>成岩各地の名称の由来</h5>
<dl>
<dt>板山</dt>
<dd>昔は本村から毎日工作に出かけていたのだが、その往復が困難なため板葺小屋をかけて住居するようになったらしい</dd>
<dt>瀬古</dt>
<dd>無量寺あたりは一つの丘陵で貝塚のあるべき地位である。前方に洲があって向山といっている。元は遠浅の瀬であったに違いない。コは沙という意味である。</dd>
<dt>粕江</dt>
<dd>小学校付近から東北、北薬師より北荒居に到る海岸をいう。これは貝殻を焼いて石灰を製造したところである。</dd>
<dt>塩垂</dt>
<dd>今の郷社（成石神社）の西に塩垂川があって、その付近を塩垂といっている。昔、塩田であったことをしめしている。</dd>
<dt>城ノ腰</dt>
<dd>榎本了圓（僧）の居城に因んだ名である。</dd>
<dt>長薮</dt>
<dd>小学校から第五区入り口に到る蕉県道の高付近をいう。往古榎本了圓が矢ガラに使用するために植えた竹薮の名残だといっている。</dd>
<dt>寺坊、寺内</dt>
<dd>無量寿寺が三河から引っ越してきたときにできたものだという。</dd>
<dt>任坊山</dt>
<dd>昔、奇僧覺明和尚のいたところである。</dd>
<dt>札之辻</dt>
<dd>字北家下県道東であって、昔から掲示場であった。</dd>
</dl>
<h6>メモ</h6>
<p>どうでもいいことかもしれないけど、昭和7年に知多鉄道（現在の名鉄に合併される）成岩駅が設けられることになった。北に半田駅、南に河和駅とはまさに名鉄河和線じゃないか…このときの記録によれば、わずか２２分で名古屋駅に達したそうな。いまより早いよ…ほんとかな、この話。いまの時計と違ったのかな？</p>
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		</item>
		<item>
		<title>成岩町五区制　成岩町史　書物編　その壱</title>
		<link>http://nansya.net/siryou/narawa/116</link>
		<comments>http://nansya.net/siryou/narawa/116#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 02 May 2008 16:01:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator>michy</dc:creator>
				<category><![CDATA[成岩町史]]></category>

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		<description><![CDATA[半田市は昭和12年までは　知多郡半田町・亀崎町・成岩町に分かれており、その頃成岩の様子をうかがい知ることのできる成岩町史（昭和11年発行）という書物がある。今後の大いなる資料としてぜひ取り上げておきたい。
成岩町史には、 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>半田市は昭和12年までは　知多郡半田町・亀崎町・成岩町に分かれており、その頃成岩の様子をうかがい知ることのできる成岩町史（昭和11年発行）という書物がある。今後の大いなる資料としてぜひ取り上げておきたい。<br />
成岩町史には、巻頭に建造物や風景の写真が載っている。</p>
<ul>
<li>成岩町役場</li>
<li>郷社　成石神社</li>
<li>村社　成岩神社</li>
<li>村社　白山神社</li>
<li>村社　八幡神社</li>
<li>村社　板山神社</li>
<li>天龍山　常楽寺</li>
<li>羽塚山　無量寺</li>
<li>篠島山　安養寺</li>
<li>鳥出観音堂</li>
<li>成福山　大昌寺</li>
<li>青龍山　雲澤寺</li>
<li>成岩第一尋常高等小学校</li>
<li>成岩町立公民青年学校</li>
<li>成岩第二尋常小学校</li>
<li>成岩幼稚園</li>
<li>忠魂碑</li>
<li>公札（×3）</li>
<li>『野荒し　もの　村方　巳己明治二年』と書かれた角柱</li>
<li>御用木</li>
<li>御用木の碑</li>
<li>成岩城址</li>
<li>成岩ヶ浜</li>
<li>成岩港</li>
<li>新縣道</li>
<li>神戸橋より成岩橋を望む</li>
<li>成岩公園（ラジオ体操をしている）</li>
</ul>
<h3>成岩町五区制（明治22年市町村制）</h3>
<p><img src="http://nansya.net/cms/wp-content/uploads/2008/05/narawa.gif" alt="成岩町五区制" title="成岩町五区制" width="449" height="315" class="alignnone size-full wp-image-1276" /></p>
<h4>メモ</h4>
<p>成岩町史は昭和11年発刊の書物だが、さらに古い『成岩村手鑑』（元禄六酉年　荒尾六右衛門書上書と書いてあるが、意味が分からない）というものがあるようだ。成岩村から成岩町になったのは明治23年12月17日だとされている。</p>
<h3>成岩町の位置</h3>
<p>東経136度52　　北緯34度522</p>
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		</item>
		<item>
		<title>成岩町史　壱　言伝え編</title>
		<link>http://nansya.net/siryou/narawa/115</link>
		<comments>http://nansya.net/siryou/narawa/115#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 02 May 2008 16:00:15 +0000</pubDate>
		<dc:creator>michy</dc:creator>
				<category><![CDATA[成岩町史]]></category>

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		<description><![CDATA[半田市は昔　亀崎町・半田町・成岩町という地区に分かれており、それぞれ産業が盛んでありました。
当時の成岩町は、今の西成岩・板山も含めた地区だったそうですが、話は、さらに昔の成岩村だった頃までさかのぼります。
南組近辺、今 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>半田市は昔　亀崎町・半田町・成岩町という地区に分かれており、それぞれ産業が盛んでありました。<br />
当時の成岩町は、今の西成岩・板山も含めた地区だったそうですが、話は、さらに昔の成岩村だった頃までさかのぼります。</p>
<p>南組近辺、今の東組や西組の辺り（『馬場』：ばんば）は ほとんどが海でした。（『成岩神社』の東側に『波寄神社』という小さな社があります。そこまでが浜）<br />
『成岩神社』を中心とする商いが盛んで、成岩の人口は『北村』にほぼ集中しており、その頃から『大獅子小獅子の舞』があったそうです。<br />
北村から見て　南の村ということで『南組』になったと思われます。<br />
今の『南憩いの家』は、『成岩神社』とほぼ同じ高さにあり、海ではなかったようです。</p>
<p>神戸川をはさんだ馬場には『成岩城』があり、その馬場だったことから、東組・西組の地域を馬場と呼んだわけですが、その『成岩城』を見張る場所として、『とりで観音』があったとされています。<br />
この『とりで観音』けっこう大事なポイントになってくるような気配あり。</p>
<p>宝暦2年に初めて成岩神社に、現・南組南車創建とされています。宮本車と言われる理由です。（しかし、これははっきり断言できることではない、今でも続く難しい問題です。）</p>
<p>その後、開拓を重ね、人が移住し、南組にも馬場にも人口が増えてきました。<br />
大正になって、北村、東馬場、西馬場が山車を持つようになり、現在の成岩3・4区の祭礼になりました。</p>
<p>北村は十分に人口と資金が揃っておりました。<br />
彫刻は、高価な紫檀や黒檀、欅を使った彫常の作品ですが、当初の予算をはるかに超えてしまい、幕にまで資金が回らず、布、だったような気がします。<br />
今のすばらしい『獅子と牡丹』の大幕はごく最近のものです。<br />
（っていっても、二十年くらい前かな）</p>
<p>本当にすばらしい彫刻の色。他所組ながら、惚れ惚れします。<br />
（メモ書き程度で失礼）</p>
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