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	<title>南組南車michyウェブサイト「私の祭記録」　-祭・山車・囃子情報、各地の山車祭リポート-</title>
	<link>http://nansya.net</link>
	<description>michyが所属する南組南車は、宝暦二年 成岩町(現・半田市成岩地区)に初めて創建された山車です。今から、250年以上の歴史ある山車、山車組に関連する情報を中心に、各地の山車祭情報を発信する個人管理のページです。あくまで個人的に製作したものなので、南組とは一切関係ありません。</description>
	<lastBuildDate>Mon, 23 Nov 2009 00:50:37 +0000</lastBuildDate>
	<docs>http://backend.userland.com/rss092</docs>
	<language>ja</language>
	
	<item>
		<title>うなぎにつられて虫干しに行ってきました！</title>
		<description>毎年、7月終わりか8月頭に虫干しをしています。いつも半被係と祭務、理事、管理委員でやってくれています。そこに関係ない囃子連が入り込んだ！撮影と…うなぎ。

[gallery link="file"] </description>
		<link>http://nansya.net/minami/photo/1309</link>
			</item>
	<item>
		<title>神戸橋竣工記念式典(平成21年6月27日)</title>
		<description>かつて前六角での曳き別れセレモニーが行われるようになる前まで、成岩三区の山車三輌（南組南車、西組神車、東組旭車）だけで曳き別れを行っておりました。その場所が、今回ご紹介する「神戸（ごうど）橋」です。
現在、半田ではインターから降りてきた川沿いの道を工事中です。インターから衣浦海底トンネルへ直進できるようになるそうです。便利な道は、経済の発展に直結していますからね。また、途中にある名鉄青山駅近辺なども高架になり、渋滞も緩和される予定です。この川沿いの道が、半田で主要な道となるわけですから、その枝道も整えられてきている中、神戸橋も新たに作り変えられたわけです。
その工事が終わり、三区では「神戸橋竣工記念式典」を執り行いました。そこには、成岩神社の宮司さん、各山車組の神楽・役員、三区の中の三世代夫婦・金婚式の夫婦というおめでたい皆さんが集まり、小さいながらもきちんとした式典でした。

[gallery link="file"] </description>
		<link>http://nansya.net/minami/photo/696</link>
			</item>
	<item>
		<title>第27輌：聖王車：横町：小牧市</title>
		<description>


	祭礼日
	8月第3土日
	見所
	どんでんが　ここでも行われている。4台ともひとつの大きな格納庫に入る
	創建年
	???
	主な彫刻
	前壇　「金塗りの波龍」

 </description>
		<link>http://nansya.net/hyakuryou/617</link>
			</item>
	<item>
		<title>第26輌：肴町：小垣江：刈谷市</title>
		<description>


	祭礼日
	4月中旬10月第2日曜日
	見所
	年に2度のまつり。春と秋の雰囲気は違うのかなぁ
	創建年
	江戸期
	現車は宝永元年建造地を離れるが平成12年に刈谷市に保管され修復中
	主な彫刻
	前壇　｢波に龍｣

 </description>
		<link>http://nansya.net/hyakuryou/612</link>
			</item>
	<item>
		<title>第25輌：本板山組本子車：板山地区：半田市</title>
		<description>


	祭礼日
	4月中旬の土日
	見所
	北と南に別れて 神社へ奉納
	創建年
	安政以前
	現車は大正4年建造
	主な彫刻
	壇箱　「七福神」（初代彫常）
	脇障子　「高砂翁媼」（初代彫常）
	持送り　「力神」（初代彫常）
	幕
	大幕　緋羅紗地の無地
	追幕　緋羅紗地に大黒天と本板山組の文字の金刺繍
	水引　青地に七五三縄の刺繍


半田博物館　展示解説より

板山は、半田市の南西に位置し、西に常滑市と接している。
神戸川の北に日役、南に小板、本板山、大湯に別れている。

祭礼について

小板・本板山・大湯が、板山神社
日役が、八幡神社

板山神社について

創建年代は、定かではないが永禄年間以前ではないか
明治43年『板山神社』と呼称された。
祭神は、天児屋根命・天照大神・応神天皇である。

祭礼の歴史について

板山の祭礼の起源は定かではないが、山車の有無は別として天保年間であろう
（本板山組の勇参（いさみ）太鼓を修理した際、太鼓の内側に天保2年（1831）と記され、また日役組みの保管する獅子頭の箱には天保６年（1835）と記されていた。）
昭和34年の伊勢湾台風により、祭礼を中止した。
昭和35年には、青年団が解散したため、祭礼行事を維持する組織がなくなった。
昭和39年頃から新しい形態で復活し、現在に至っている。

三番叟について

板山神社の宮本車であるため、からくり三番叟を奉納する。
からくりの製作年代は不明。
本板山のからくり三番叟は他地区のものと舞い方が異なる点が多い。

山車について

創建年代は、定かではない。
大正時代初代彫常によって彫刻が付けられ、現在の形になった。
 </description>
		<link>http://nansya.net/hyakuryou/610</link>
			</item>
	<item>
		<title>第24輌：彦州組日之出車：西成岩地区：半田市</title>
		<description>


	祭礼日
	4月中旬の土日
	見所
	成石神社への坂上げ？？？
	創建年
	大正13年
	大正4年から各地区からの旧材を用いて建造
	主な彫刻
	壇箱　「桃園の三英傑」（初代彫常）
	脇障子　「黄初平仙人」（初代彫常）
	持送り　「竹に虎」（岩田冬根）
	幕
	大幕　緋羅紗地の無地
	追幕　白地に雲と龍の金刺繍
	水引　白羅紗地の無地


半田博物館　展示解説より
彦洲地区について

西成岩の出郷で、水田が広がり、丘陵では酪農が営まれる農業地域
人口は昔から少ない。
津島神社にある明治40年4月建立の常夜灯に当時の戸数25軒が刻まれている。

祭礼について

成石神社への奉納と山車の町内曳きを中心に行われている。
山車の起源は定かではないが、当初は小型の山車を曳いていたらしい。（大正4年　榊原庄太郎氏より寄進の申し出があったので　その車を西阿野へ売却し、各地区の旧材を用いて新しい山車を完成させたという歴史がある。）

cf:戸数の少ない彦洲の人々にとって、新しい山車の完成は宿願であり、その喜びは想像にあまるものであった。そのため完成の際、人々は日の出車を曳いて御大典の祝歌を歌いながら遠く成岩の榊原庄太郎氏経営の尾張製粉会社までお礼に行ったという。彦洲の車を日の出車というのは、あるいは大正天皇御大典の歌の『昇る朝日』に由来しているのかもしれない。
山車について

昭和24年頃に、幾度の修理を経て現在の形になった。（亀崎田中組から上山などを譲り受け大修理）

彫刻について
初代彫常(新美常次郎)　明治45年

壇箱　『桃園の三英傑』
脇障子　『黄初平仙人』

岩田冬根　昭和26年

蹴込　『牡丹に唐獅子』
持送り　『竹に虎』

幕について

大幕　緋羅紗の無地
水引　白羅紗の雲龍
追幕　緋羅紗に扇鈴の刺繍
 </description>
		<link>http://nansya.net/hyakuryou/596</link>
			</item>
	<item>
		<title>第23輌：西組敬神車：西成岩地区：半田市</title>
		<description>


	祭礼日
	4月中旬の土日
	見所
	成石神社への坂上げ？？？
	創建年
	明治年間
	現車は明治11年建造大正、昭和、平成にかけ改造を重ね、現在に至る。
	主な彫刻
	壇箱　「鵺退治」（瀬川治助重光）
	脇障子　「神功皇后」（初代彫常）
	持送り　「力神」（初代彫常）
	幕
	大幕　緋羅紗地の無地
	追幕　緋羅紗地に烏帽子と鈴の刺繍
	水引　白羅紗地に飛龍の金刺繍


半田博物館　展示解説より
西成岩の祭礼は、毎年4月の第2日曜日、山車の町内曳きと成石神社の境内において、神楽・巫女舞・からくり三番叟の舞の奉納と中心に行われる。
成石神社は、尾張国知多郡誌によれば、『成岩村字狐塚ニ在リ境内五百六十四坪天穂尊大己貴尊小彦名命ヲ合祀ス近世八幡大明神ヲ神殿トス(尾張誌)、創建詳ナラス本村旧八幡社ニ座アリ一ハ字宮廻間一ハ字南瀬古ニ在リ明治五年氏子互ニ其奉仰スル所ノ八幡社ヲ以テ本国帳所載ノ従二位成石天神トシ争ヒ決セス糠田県命シテ其神体ヲ合セ神殿ヲ新造シテ之ヲ今地ニ移シ改称ス九月郷社ニ列セラル祭日十月十五日境内社弐(天神社・熊野社)氏子八百八十八戸アリ』とある。また成岩町史によれば、明治42年に現在地に移され改めて郷社になる。
山車は西組敬神車と彦洲組日之出車の２輌である。西組敬神車は、明治11年（1878）建造され、大正3年大改造を行い現在の形となった。彫刻は、名古屋の瀬川治助重光作の壇箱『鵺退治』、野々垣清太郎作の持送り『力神』、初代彫常作の蹴込『竹に虎』脇障子『神功皇后』等である。
大幕は、緋羅紗の無地、水引は、白羅紗地に波と波頭・飛龍の金刺繍、下絵師『正池』の繍がある。『正池』は、初代彫常(新美常次郎)の別名である。
宮本車である敬神車は、前壇において、からくり三番叟の舞を成石神社に奉納する。 </description>
		<link>http://nansya.net/hyakuryou/594</link>
			</item>
	<item>
		<title>第22輌：砂子組白山車：協和地区：半田市</title>
		<description>


	祭礼日
	4月中旬の土日
	見所
	白山神社への坂上げ（かなりきつい坂らしいが！）
	創建年
	明治年間
	現車は大正3年建造（旧車は亀崎石橋組から譲渡されたもの。武豊市原へ売却）
	主な彫刻
	壇箱　「三国志」（初代彫常）
	脇障子　「関羽と張飛」（初代彫常）
	持送り　「角つなぎに五三の桐」（初代彫常）
	幕
	大幕・後幕　金文字刺繍
	追幕　青地に鶴と雲の刺繍
	水引　白羅紗地に松と鷹の刺繍


半田博物館　展示解説より
白山神社の祭礼に曳き出されるのが、協和地区の砂子組白山車と西組協和車の2輌である。半田地区に接する協和地区は、近世に入って成岩地区の出郷(枝村)として発展した地区で、戦前までには『北荒居』(きたらい)と呼ばれていた。成岩本郷からみて北方にあるからであろう。
白山車は宮本車であるが、山車本体は建造年代は不明であるが、彫刻が入って、現在の形が整ったのは大正2年である。
蹴込みの浦島太郎、持送りの角つなぎ、五三の桐、壇箱の三国志演技などの主要彫刻は初代新美常次郎の作であるが、前山懸魚の籠は亀崎石橋組より譲り受けたもので、瀬川治助重光の作。上山高欄の水鳥は最近施したものである。その他は台輪を含めて、欅・紫檀・黒檀等の唐木を用いている。
宮本車であるので、地元の小学生操り、三人遣い三番叟を演ずる。人形の持ち方は文楽人形に似ていて、主遣いが胴串と右手の扇子、左手遣いが胴枠と左手、足遣いが両足を受け持つ。囃子は上半田地区から伝承されたという。
白山神社祭礼の見どころは、急坂を曳き上げて神社の境内へ曳き込む『坂の曳き上げ』である。両組の曳き手が互いに力を貸し合って、一気に坂を上る様子は極めて勇壮である。 </description>
		<link>http://nansya.net/hyakuryou/590</link>
			</item>
	<item>
		<title>第21輌：東組山王車：下半田地区：半田市</title>
		<description>
尾張の山車まつり　管理人　nova様より

	祭礼日
	4月中旬の土日
	見所
	知多半田駅前　JR半田駅前　AVIX前など　見所まんさい！
	創建年
	大正9年
	大正14年　建造（旧車は岩滑新田平井組から購入し、大正13年に売却）
	主な彫刻
	壇箱　「力神、王処仙人隠栖」（初代彫常）
	脇障子　「源為朝」（初代彫常）
	幕
	大幕　緋羅紗地に「琴高仙人」「費長房仙人」「蘆敖仙人」の刺繍
	追幕　東雲橋と桜の刺繍
	水引　緑地に松と鷹の刺繍


半田博物館　展示解説より
山車名の由来

	山王は日吉神社の別称である（しかし、下半田の氏神である業葉神社は大物主神とは直接関係がない。）
	三皇で、中国の故事にならい、業葉神社の祭神である応神天皇、仲哀天皇、神功天皇を三皇にみたてたものであろう

山車について

	下半田の祭礼は18世紀頃から山車3輌を曳いていた
	大正9年に市内岩滑新田平井組の山車を買請け東組として祭礼に参加（この山車は大正13年に南知多町師崎大井浜組へ売却し、大正14年に山車を新造）これより下半田の山車は4輌となった。

彫刻について
○初代彫常

	壇箱　力神と王処仙人穏栖
	脇障子の源為朝
	前山蟇股の龍と仙人

○二代目彫常

	蹴込み　竹に虎

特に壇箱両脇の力神は初代彫常が、亀崎中切組力神車の立川和四郎富昌の力神を意識して彫ったもので、数多い彫常の力神の中で異色の作品である。山車に関する資料は残念ながら伊勢湾台風で流失したため残っていない。
半田博物館　展示解説より
前棚人形『麾振り』
両手に持った麾を上下に振る。昭和55年、7代目玉屋庄兵衛の製作。 </description>
		<link>http://nansya.net/hyakuryou/589</link>
			</item>
	<item>
		<title>第20輌：中組祝鳩車：下半田地区：半田市</title>
		<description>
尾張の山車まつり　管理人　nova様より

	祭礼日
	4月中旬の土日
	見所
	知多半田駅前　JR半田駅前　AVIX前など　見所まんさい！
	創建年
	元文以前
	安政5年、明治5年に大改造されたが、現車は　大正3年　建造
	主な彫刻
	壇箱　「天の岩戸」（初代彫常）
	脇障子　「神武東征」（初代彫常）
	持送り　「波に千鳥」（初代彫常）
	幕
	大幕　緋羅紗地の白捻糸怒濤群鵆
	追幕　緋羅紗地に蘭陵王の刺繍
	水引　濃緑地に千鳥の刺繍


半田博物館　展示解説より
祝鳩車の属する下半田の祭礼に山車が曳き出されたのは、少なくとも元文4年（1739）以前であり、その伝統は現在もなお伝えられているが、山車そのものは古くなると修理、改造を加えたり、彫刻を付け加えたり、あるいは他へ売却して新造する。従って、元文年間の山車が現在に伝えられているわけではない。半田型の山車が現在の型に落ち着いたのは、文政9年(1826)亀崎中切組力神車からである。
祝鳩車も現在判明しているだけで、安政年間（1854～59）明治5年（1872）と改造を繰り返したが、大正初めに他へ譲渡し、大正3年（1914）8月に新造したものである。『祝鳩車』の名は前山懸魚並びに桁隠しの彫刻と刺繍の図柄『昇鳩降鳩』による。
大幕は緋羅紗の表布に金糸･銀糸･白捻糸による波の刺繍。駒刺繍である。また、水引はもともと白無地であったが、濃緑地に千鳥の刺繍を施した。大幕、水引ともに下絵は池上秀畝で、新車の建造に先立って明治45年(1912)に製作したものである。
数多い彫刻のすべてが彫常(新美常次郎)一門の手によるもので、材は欅や桜、黒檀などである。蹴込、持送りは『波に千鳥』前山懸魚も『昇鳩・降鳩』などの鳥類、八枚虹梁は費長房の中国仙人、前山蟇股には七福神など縁起物が彫られているが、太瓶鰭をはじめ、壇箱『天の岩戸』、脇障子の『神武東征』など、神代物が多く彫られている。人物が中国物から神代物へと、時代を反映させながら移り変わっていく様子が見られる。
初代彫常(新美常次郎)は明治9年（1876）半田村の船大工伝蔵の次男として生まれた。父伝蔵は船大工のかたわら半田の南宋画家山本海荘の画廊も作っていたので、海荘との交流もあり、これが常次郎に影響を与えたという。14歳で名古屋の彫刻師早瀬長兵衛(八代目彫長・木龍堂）に弟子入りした。明治38年（1905）に亀崎中切組の力神車が大店坂で転覆し、彫刻も少なからず破損した。そこで明治38、39年にかけて大修繕が行われたのであるが、このときに修理に当たったのが、彫長で修行中の新美常次郎と、兄弟子の伊藤則光であった。力神車の彫刻はすべて立川和四郎富昌、立川常蔵昌敬の作であり、ここで常次郎と立川流彫刻との触れ合いが出来たものと思われる。その後亀崎田中組の彫刻修理なども手がけた。さらに、明治42年（1909）東京東本願寺の改築に当たって、全国の名匠とともに彫長の代理として十数名を引き連れて参加したことは有名である。時に常次郎は34歳であった。東本願寺で大きな成果をあげると、引き続き半田地方の山車彫刻を手がけることとなり、明治43年から45年にかけて乙川西山神楽車の壇箱や脇障子、蹴込などの彫刻を制作した。また、大正12年には協和砂子組の白山車の全彫刻を手がけた。
つづいて大正3年に完成した祝鳩車のすべての彫刻も彫常一門によるものであり、最も統一された構成美をもった、彫常の代表作と言われる。特に壇箱の『天之岩戸』の両脇の天之細命と思兼神との対比は支柱的構成として美しく、彫常の作品として傑作の一つである。
大正4年（1915）の長野善光寺仁王門建立の際には彫刻棟梁として腕をふるい、曹洞宗大本山永平寺総改築の時、大講堂欄間に彫られた彫刻もよく知られるところであり。
彫常の用いた欅材は立川一派と同じく木曽山脈の伊那谷川に育ったものである。この地の欅は木目が通り、色艶がよく彫刻には最適だといわれるが、現在は伐り尽くされてしまった。また、彫常が最も意を注いだのは”かため”(構成･組み立て)と荒彫りであった。従って仕上げはほとんど弟子にまかせたという。
半田博物館発行「からくり」より
上山人形『蘭陵王』
人形が持っている壺の中から蘭陵王が出て舞う。昭和五十六年、七代目玉屋庄兵衛の製作。

前棚人形『太平楽』
雅楽曲太平楽に合わせて甲 </description>
		<link>http://nansya.net/hyakuryou/588</link>
			</item>
	<item>
		<title>第19輌：南組護王車：下半田地区：半田市</title>
		<description>


	祭礼日
	4月中旬の土日
	見所
	知多半田駅前　JR半田駅前　AVIX前など　見所まんさい！
	創建年
	元文以前
	現車は明治41年に建造（旧車は　明治14年に美浜町布土へ譲渡）
	主な彫刻
	壇箱　「護王の夢物語」（初代彫常）
	脇障子　「新田義貞・児島高徳」（初代彫常）
	持送り　「力神」（初代彫常）
	幕
	大幕　緋羅紗地の無地
	追幕　五色の凡帳
	水引　花色羅紗の表布に鶴の群舞の刺繍


半田博物館　展示解説より
下半田業葉神社の祭礼には、18世紀初頭のころすでに山車3輌を曳いていたことは、同社の文書によっても察せられるが、そのうち上山に『恵比寿』を乗せていたというのが、この護王車の前身であろう。その山車か、あるいはその後に新造した山車かはわからないが、明治14年に旧車を美浜町布土に譲り、明治41年に新造したのが現車である。
山車本体は阿久比町横松の宮大工『江原新助』の手によるもので、主要彫刻は『力神』壇箱の『護王の夢物語』、脇障子の『新田義貞・児島高徳』等、大部分の彫刻は初代彫常『新美常次郎』の作、。蹴込の『一笑の図』は二代目彫常『新美茂登司』の作であったが、布土へ譲渡したため、改めて彫常が手がけたもので、彫常の力作の一つである。これ以来壇箱の持送りが従来の『角つなぎ』から『力神』へと一般化していった。
水引の刺繍は『鶴の群舞』で、下絵は織田杏斎の作、追幕は他に例のない『五色の几帳』である。また、前山人形は『巫女舞』の糸からくりで、六代目玉屋庄兵衛の大正7年の作、上山人形は『恵比寿大黒』であるが、現在恵比寿大黒は休演している。
半田博物館発行「からくり」より
前棚人形『巫女の舞』
大正7年、六代目玉屋庄兵衛の製作 </description>
		<link>http://nansya.net/hyakuryou/584</link>
			</item>
	<item>
		<title>第18輌：北組唐子車：下半田地区：半田市</title>
		<description>


	祭礼日
	4月中旬の土日
	見所
	知多半田駅前　JR半田駅前　AVIX前など　見所まんさい！
	創建年
	創建年　寛政年間以前
	天保8年に　大改造
	主な彫刻
	壇箱　「唐子遊び」（立川常蔵昌敬）
	脇障子　「手長足長」（立川常蔵昌敬）
	持送り　「角つなぎ」
	幕
	大幕　緋羅紗地に猩々　瓢箪から駒の刺繍
	追幕　金襴の縁取り
	水引　青羅紗地に群鳩飛翔の刺繍

半田博物館　展示解説より
元文4年（1739）5月、半田村から寺社奉行に差し出した文書には次のように書かれている。『八幡宮祭礼八月十五日警固笠鉾弐母衣五つ山車三輌一輌は獅子頭一鼓乗せ一輌は唐子一輌は恵比寿祭村中より社前迄引渡し右社同村七良平支配』
この文書にある唐子一輌とあるのが、北組の唐子車ではないかと思われる。その後文政5年（1822）の八幡社由緒にも宵祭りの御神幸の儀式を中心に、三番叟、子供神子舞、獅子舞、笹踊り、俄狂言などの芸能とともに山車三輌も奉納されていたことが記されており、18世紀から続く祭礼の伝統の一端を知ることが出来る。
『唐子車』の名は、壇箱(前壇)に彫られた唐子の彫刻によるものであるが、北が『子』の方角であることとも関連付けられる。
現在の山車は天保8年(1837)に大改造がなされたと言われているが、上山高欄より上部には全体に塗りが施されていること、上山四本柱が角柱であることなど、天保期以前と思われる古い要素をとどめている。脇障子や壇箱の彫刻に合わせて天保8年に前山部分を改造したものと推定される。
『唐子車』が他の山車と異なる点に台輪がある。一般には平台和は両妻を切り落として兜金をつけたり、木鼻を雲形、唐草形、象形などに加工したりするのであるが、この唐子車は外側と内側に波形彫刻があり、内側ではその一部を削り取って妻台輪をつけ、その一部は妻台輪奥にまで及んでいる。これは平台輪が当初からこの山車のために作られたものではなく、他から転用していることを示している。波形があるから船の部材ではないだろうかと言われているが、材料が欅であり、社寺の虹梁として用いられた可能性も強い。
主要彫刻の脇障子の『手長足長』と壇箱彫刻の『唐子』は立川常蔵昌敬の作である。
立川常蔵昌敬は諏訪の住人立川和四郎富昌の娘婿で、富昌の片腕ともなった弟子である。享和2年（1802）現長野県諏訪市湯小路に生まれ、富昌について腕を磨いたが、昌敬の最初の作品とされるのが文政4年（1821）に彫った豊川稲荷客殿の彫刻だと言われる。この唐子車の彫刻は天保9年（1839）のもので、昌敬が37歳の時のものである。
蹴込の『獅子に牡丹』太平鰭の『雲に麒麟』前山懸魚『鳳凰』などはすべて新見常次郎(彫常)一門の作であるが、蹴込の籠彫りは上半田北組のそれと並んで彫常一門の傑作とされている。
水引は青羅紗地に『群鳩飛翔』の刺繍で、下絵は松村景文のものである。
また、前山のからくり人形は三番叟であるが、面は隅田仁兵衛の作である。
大幕は緋羅紗地に猩々、瓢箪から駒の金刺繍である。 </description>
		<link>http://nansya.net/hyakuryou/583</link>
			</item>
	<item>
		<title>第17輌：奥組旭車：岩滑新田地区：半田市</title>
		<description>


	祭礼日
	4月中旬の土日
	見所
	新美南吉記念館での　岩滑地区との4台揃い
	創建年
	大正5年
	平成2年に幕を新調する
	主な彫刻
	壇箱　「天之岩戸」（初代彫常）
	脇障子　「高砂」（初代彫常）
	持送り　「力神」（初代彫常）
	幕
	大幕　緋羅紗地に「ごんぎつね」「おじいさんのランプ」の刺繍
	追幕　緋羅紗地に波・「奥」の文字の刺繍
	水引　緑地に群鳩飛翔の刺繍


半田博物館　展示解説より
岩滑新田は半田市の北西部に位置し、西は常滑市、北は阿久比町に接する農業地域である。
延宝9年（1681）岩滑村として開発された。
祭礼について

毎年4月上旬　町内曳き、氏神である神明社への神楽やからくり三番叟

山車について

青年会の要望により宮津の大工岡戸峰二郎に依頼し山車を新調のが始まり(大正5年)
下半田の初代彫常(新美常次郎)に依頼した。
平井組を招待し、上棟式を執行（大正5年4月1日）
平井組の役員12名は、礼服を着、祝金2万円を持参して参列したそうである。

cf:この年から平井、奥組2輌の山車を曳き廻すようになり、昭和28年まで行なわれた。これ以降中断され、昭和52年に再開し現在に至っている。

からくり人形について

前山からくりとして三番叟がある。
この地区では宮本車以外の山車においてからくり三番叟の舞を奉納する。

彫刻について

初代彫常作の持送り『力神』、壇箱『天之岩戸』、脇障子『高砂』、前山蟇股『龍』、太瓶鰭『神功皇后』、前山懸魚『鶴』等

幕について

大幕、追幕、水引、吹流し一式を京都の川島織物において新調（平成2年4月）
追幕、水引には、刺繍を施した。
 </description>
		<link>http://nansya.net/hyakuryou/578</link>
			</item>
	<item>
		<title>第16輌：平井組神明車：岩滑新田地区：半田市</title>
		<description>


	祭礼日
	4月中旬の土日
	見所
	新美南吉記念館での　岩滑地区との4台揃い
	創建年
	大正4年
	現車は大正7年に　新造（旧車は大正4年に阿久比の大工横松新助から購入し3年使用後、下半田東組に譲渡。後に南知多大井浜組に譲渡、現存している）
	主な彫刻
	壇箱　「神武天皇蝦夷征伐」（初代彫常）
	脇障子　「須佐之男命　稲田姫」（初代彫常）
	持送り　「波に千鳥」（初代彫常）
	幕
	大幕　緋羅紗地に玉取姫と龍の刺繍
	追幕　緋羅紗地に鳳凰と雲の刺繍
	水引　濃緑羅紗地に雲鶴の刺繍


半田博物館　展示解説より
神明社について

神明社は、元禄4年（1691）天照大神を祭祀としたのが始まりとされる。
明和9年（1772）本社を改造、その後社殿を拡大し、大正7年村社になり現在に至っている。

祭礼について

毎年4月上旬　町内曳きと神明社への神楽やからくり三番叟の奉納

山車組の歴史について

青年会によって金180円で阿久比横松大工新助から買い求めたとされる（大正4年8月）
岩滑義烈組から神楽を習いその謝礼として金10円を贈った
上棟式を行い、岩滑義烈組、西組、岩滑新田奥組を招待している。（大正5年）
名古屋の6代目玉屋庄兵衛から、金15円でからくり三番叟を購入(大正5年)以降、三番叟舞を奉納。
平井組総会で山車新調が決定し、江原芳衛に金1､080円で依頼（大正6年）
初代彫常に彫刻を依頼（大正8年）　

現在に至る
cf:平井組には、嘉永元年（1848）から明和にかけての若者組について記された『若イ者永代記』が保存され、当時の祭礼の様子を知る手がかりになる。
彫刻について

壇箱『神武天皇』、脇障子『須佐之男命』、『稲田姫』、蹴込『長鳴鶏』等

幕について

大幕、追幕、水引、吹流し一式を京都の川島織物より購入（平成2年4月）
大幕　緋羅紗地に玉取姫と龍の刺繍
水引　濃緑羅紗地に雲鶴の刺繍
追幕　緋羅紗地に鳳凰と雲の刺繍
 </description>
		<link>http://nansya.net/hyakuryou/582</link>
			</item>
	<item>
		<title>第15輌：北組唐子車：上半田地区：半田市</title>
		<description>


	祭礼日
	4月中旬の土日
	見所
	住吉神社に浮ぶ幽玄な「ちんとろ船」で舞われる　男形、女形の三番叟
	創建年
	弘化3年
	現車は大正12年に　新造（旧車は成岩東組に譲渡）
	主な彫刻
	壇箱　「三韓征伐宝物受取り」（初代堀常）
	脇障子　「須佐之男命　日本武尊」（初代堀常）
	持送り　「角つなぎ」（初代彫常）
	幕
	大幕　緋羅紗地の無地
	追幕　緋羅紗地に鳳凰・雲・桐の刺繍
	水引　濃緑羅紗地に飛鷺の刺繍


半田博物館　展示解説より
上半田の祭礼は、住吉神社の例祭として、行われてきた。『半田町史』によれば、『寛政の頃下半田は山車を作り、文化の頃岩滑亦之を作り、上半田は宮池を利用して同時の頃津島に倣ひ舟祭とせしが其後南組は山車に改め北組は依然舟祭なりしも、嘉永5年より南北共に舟及車の両個と為し以て今日に至れり、』とあり、古くから舟祭りと山車を伴う祭りであったようである。
舟は、『ちんとろ舟』と呼ばれ、舟上において子供三番叟の舞を住吉神社に奉納する。
北組唐子車は、弘化3年（1846）建造され、大正11年東馬場(現・成岩東組旭車)へ譲渡した。現在の山車は、大正12年に新調したものである。彫刻は、初代彫常(新美常次郎)作の壇箱「三韓征伐宝物受取り」、蹴込『唐獅子に手まり』、脇障子『神功皇后』等である。
特に、蹴込は、下半田北組の蹴込と同様籠彫りを施し、初代彫常の代表作の一つである。旧車には、諏訪の立川和四郎富昌作の壇箱『唐子遊びと鶏』、脇障子『鉄拐仙人・蟇仙人』等の彫刻を付けていた。現在も成岩東組旭車を飾っており、唐子車の名は、旧車の壇箱に由来する。
大幕は、緋羅紗の無地である。追幕は、緋羅紗時に鳳凰・雲・桐の金刺繍に金襴の縁取り、水引は、濃緑地に飛鷺の刺繍が施されている。山車の各所にある金物は、すべて純銀で、仕用書によれば、重量約40貫(約150kg)であるという。 </description>
		<link>http://nansya.net/hyakuryou/576</link>
			</item>
	<item>
		<title>第14輌：南組福神車：上半田地区：半田市</title>
		<description>


	祭礼日
	4月中旬の土日
	見所
	住吉神社に浮ぶ幽玄な「ちんとろ船」で舞われる　男形、女形の三番叟
	創建年
	天保13年
	現車は大正11年に　新造（旧車は大正3年に　常滑市瀬木に売却）
	主な彫刻
	壇箱　「七福神」（立川和四郎富昌）
	脇障子　「崑崙坊人」（立川常蔵昌敬）
	持送り　「力神」（初代彫常）
	幕
	大幕　緋羅紗地の無地
	追幕　緋羅紗地に白色の花鳥の刺繍
	水引　白地に松・鷹の金刺繍


半田博物館　展示解説より
上半田の祭礼は、住吉神社の例祭として、北・南の2組に別れ、規約に従い行われる。
北組には、明治34年（1901）旧暦3月16日定められた舟祭を運営する中老組合の規約が残されている。祭礼行事の運営組織として若衆組と中老組があった。若衆は、呼年15歳から25歳までの者で山車･子供三番叟を担当した。中老は呼年26歳から35歳までの若衆組経験者により組織され、舟祭り・花火を担当した。両組ともその規約は厳しく、特に年長者に対する礼儀、口論・喧嘩の禁止、年長者の指示に対する服従などが定められていた。若衆組には『若家』、中老組には、『船若家』と呼ばれる寄り合い場所が設けられた。『若家』では、山車に関する祭礼行事や、若衆の年中行事などの相談、『若家がわり』と称する次年度の『若家』を決定する会合等が開かれた。現在、両組織はなくなり、各年齢ごとに持ち回りで祭礼行事を行っている。
南組福神車、旧車から受け継がれてきた立川一門の彫刻を前壇と脇障子に施している。旧車は、前壇と脇障子の彫刻を残し、大正3年常滑市瀬木に売却された。創建年代は、常滑瀬木に残されている上山の皿天井の記銘から天保13年(1824)と思われる。
現在の山車は、大正11年江原留三郎が建造し、新美常次郎が彫刻を施した。
彫刻は、弘化3年諏訪の立川和四郎富昌作の壇箱『七福神』、福神車の名は、この彫刻に由来する。同年立川常蔵昌敬作の脇障子『崑崙坊人』、大正11年初代彫常(新美常次郎)作の持送り『力神』などである。大幕は、緋羅紗の無地、追幕は、緋羅紗地に白色の花鳥の刺繍、水引は、白地に松･鷹の金刺繍、下絵は、日本画家山本香雲の作である。 </description>
		<link>http://nansya.net/hyakuryou/574</link>
			</item>
	<item>
		<title>第13輌：東組宮本車：亀崎地区：半田市</title>
		<description>
尾張の山車まつり　管理人novaさま　ご提供

	祭礼日
	5月3、4日
	見所
	海浜への山車の曳き下ろし調子のよい　軽快な祭り囃子
	創建年
	文政5年以前
	現車は元治2年　建造
	主な彫刻
	壇箱　「龍に虎」（瀬川治助重光）
	脇障子　「獅子の谷落とし」（瀬川治助重光）
	持送り　「唐草」（作者不明）
	幕
	大幕　緋羅紗地に宝珠玉の金刺繍　
	追幕　緋羅紗地に七陽星の金刺繍
	水引　白地に七五三縄の金刺繍


半田博物館　展示解説より
亀崎潮干祭について

毎年5月3、4日　神前神社と尾張三社
5輌の山車を中心に神楽やからくり奉納などが祭礼規約に従い進められる。
起源は定かではない

cf:地元伝承
『応仁・文明(15世紀後半)』の頃、18軒の武家が当時寺浦(現寺山)に移住し稲生･神谷･岩本の姓を名乗り、年の進むにつれて人口も増加して、彼等の発起で、荷車様の物に笹竹を立て神官の指示により神紋の巴の紋章を付けた幕を張り、囃子を入れて町内を曳き廻したのが山車の起源である』これが宮本車であると言われている。
cf:弘化年間に描かれた『尾張名所図会、小治田の真清水』には、5輌の山車が砂浜を行く潮干祭りの様子が描かれている。

海より祭神が上陸したという伝説から、5輌の山車を砂浜へ曳き下ろし、横列に並べ、再び陸へ曳き上げるというように勇壮なものである。
昭和34年の伊勢湾台風により甚大な被害を受け、翌年、堤防と国道の完成により浜辺への曳き下ろしは中止された。（以降　復活したのはいつか調べておきます）


旧車について

旧車は、元治2年（1865）に碧南市鶴ヶ崎へ譲渡
虹梁の龍　早瀬長兵衛(6代目吉政と思われる）　文政5年（1822）
『尾張名所図会』に描かれている山車と思われる。

現車について

元治2年（1865）　建造

からくり人形について
亀崎のすべての山車は、神社の境内において、前山人形と上山人形の舞を奉納する。

東組は、宮本車であるため、前山において、かくれ三人遣い三番叟を操る。
上山人形は、『湯取り神事』
現在の人形は、荒川宗太郎　製作（昭和7年）

cf:『尾張名所図会小治田之真清水』に、五輌の山車の先頭を行く山車の上山に、神官と巫女と思われる二体の人形が描かれている。
彫刻について
○瀬川治助重光　元治2年（1865）

壇箱　『龍と虎』>
脇障子　『獅子の谷落とし』
前山蟇股　『鵺退治』

○初代彫常(新美常次郎)　大正11年

蹴込『群亀舞』

○早瀬長兵衛（8代目）

前山四本柱　堆朱で線彫りの『昇龍降龍』

幕について

大幕　緋羅紗に宝珠の金糸刺繍
追幕　緋羅紗に七曜星の金糸刺繍と撚糸(白、水色、濃紺)の刺繍
水引　白羅紗に七五三の注連縄の刺繍

cf:吹流しの頭の部分は、江戸時代の尾張藩付家老犬山城主成瀬隼人正より十万石大名の格式を東組の山車にもたせたと伝えられる。
半田博物館発行「からくり」より
上山人形『湯取神事』
尾張名所図会小治田真清水の中に潮干祭が描かれており宮本車の上山には、神官と巫女と思われる2体の人形がある。現在の人形は昭和七年、荒川宗太郎の制作。　
前棚人形『三番叟』
現在の人形は、昭和30年、日下浄雲の製作。 </description>
		<link>http://nansya.net/hyakuryou/572</link>
			</item>
	<item>
		<title>第12輌：石橋組青龍車：亀崎地区：半田市</title>
		<description>
尾張の山車まつり　管理人novaさま　ご提供

	祭礼日
	5月3、4日
	見所
	海浜への山車の曳き下ろし調子のよい　軽快な祭り囃子
	創建年
	元禄頃
	現車は明治24年　建造
	主な彫刻
	壇箱　「風伯神・雷電神」（竹内久一）
	脇障子　「日本武尊・須佐之男命」（伊藤則光）
	持送り　「波」（八代目彫長）
	幕
	大幕　紺地に波と青龍金糸刺繍
	追幕　緋羅紗地に五獄眞形図の護符の刺繍と金糸の駒取り繍
	水引　朱雀の縫いつぶし


半田博物館　展示解説より
亀崎潮干祭りは、5輌の山車(東組宮本車・石橋組青龍車・中切組力神車･田中組神楽車・西組花王車）の曳き回しと神前神社、尾張三社への神楽やからくり奉納などを中心に行われる。
神前神社について

	神前神社において年間を通して祭礼行事や神事が行われている。
	神倭磐余彦命を祭神とし旧社格が県社であることから県社と呼称されている。
	創建年代は定かではないが、『神武東征の際、湯貴首人という賊を討伐するため伊勢より当地東隅に突き出した岬へ上陸した。以後この岬を天神岬と呼ぶようになり、社を立てお祀りしたのが、同社である。』という伝承が地元にある。
	現在残されている棟礼の中で、慶弔17年(1612)のものが最も古い。
	江戸時代後期には、神前天神、亀崎神明と呼称された。
	明治4年（1871）郷社に定められ明治18年2月神前神社に改称し同年7月、県社となった。

山車について

	創建年代は、定かではない。
	弘化年間刊行の『尾張名所図会・小治田の真清水』には、上山に『唐子遊び』のからくり人形を、前山に『布ざらし』のからくり人形を飾った青龍車が描かれている。

からくり人形について

	『唐子遊び』　天保12年（1841）鬼頭二三　製作

2体の唐子が蓮台を図し、蓮台上で1体の唐子が逆立ちを行う離れからくりである。
（このからくりは、長く途絶えていたが昭和48年石橋組組員によって復元された。）


	『布ざらし』　弘化2年（1845）竹田源吉　製作された越後獅子の一場面を演じる糸からくりである。

彫刻について
○8代目彫長早瀬長兵衛(木龍堂)　明治24年

	持送り　『波』
	台輪の木鼻

cf:彫長は、江戸時代6代目早瀬長兵衛吉政の時から尾張藩御用達彫師として藩の仕事を手懸けた。8代目元兵衛(木龍堂)の弟子には、初代彫常(新美常次郎)や明治39年脇障子『日本武尊、須佐之男命』を手懸けた伊藤則光がいた。

○竹内久一

	壇箱　『風伯神雷電神』
	蹴込　『石橋』

cf:竹内久一
明治時代の近代彫刻家であり東京美術大学教授である。

○初代彫常

	前山蟇股　『七福神、恵比寿大黒、布袋』
	太瓶鰭　『神功皇后』
	前山懸魚　『子持龍』

幕について

	大幕　紺地に波と龍の金刺繍（以前は、白地であったが、平成元年旧山車の大幕を復元した。）
	追幕　緋羅紗地に梵語の詩文刺繍と金糸の駒取り繍

特記：前山四本柱は、明治24年川口門左衛門作の七宝焼き
半田博物館発行「からくり」より
上山人形『唐子遊び』
二体の唐子が蓮台を回し、蓮台の上で一体の唐子が逆立ちを行なう。天保十二年(1842)、鬼頭二三の製作。
前棚人形『布ざらし』
このからくりは、越後獅子の一場面を演じる。弘化二年(1845)竹田源吉の製作。 </description>
		<link>http://nansya.net/hyakuryou/570</link>
			</item>
	<item>
		<title>第11輌：西組花王車：亀崎地区：半田市</title>
		<description>
尾張の山車まつり　管理人novaさま　ご提供

	祭礼日
	5月3、4日
	見所
	海浜への山車の曳き下ろし調子のよい　軽快な祭り囃子
	創建年
	弘化3年以前（寛政年間に建造された旧車は板山大湯組、また知多市北粕谷へ）
	現車は弘化3年　建造
	主な彫刻
	壇箱　「太平楽の楽人」（立川和四郎富昌）
	脇障子　「葡萄取り仙人」（立川和四郎富昌）
	持送り　「角つなぎ」（初代彫常）
	幕
	大幕　緋羅紗地に金糸刺繍（文様は日本の伝統的な楽器など)　
	追幕　緋羅紗地に桜花の樹下に御所と人物刺繍
	水引　白羅紗地に御簾の金糸刺繍


半田博物館　展示解説より
亀崎潮干祭りは、毎年5月3日・4日の2日間5輌の山車(東組宮本車・石橋組青龍車・中切組力神車・田中組神楽車・西組花王車)の引き回しを中心に行う。
祭礼運営について

	祭礼行事は、5組の代表から成る代参会によって決定される。
	5組が年番(東組→石橋組→中切組→田中組→西組)で担当する代参元が統轄する。

（例）
平成4年の祭礼に関わる主な行事と日程
○3月21日各組で年間予算を決議
○3月29日代参会により『道路検分』を行なう。

『道路検分』＝山車曳き回しの安全確保のため、山車が通る順路を点検する

○4月3日神武天皇祭
○4月5日から毎週日曜日『かかりもの集め』をする。

『かかりもの』＝組費。組費の額は、代参会によって決定される。

○4月19日『ゴマ掘り』

『ゴマ』＝山車の輪（芯を取り除いていない松の輪切り）

cf:乾燥すればひび割れがはいるので祭礼期間以外は海岸の砂浜に埋める。

○4月25日『稽古始め』～5月1日『稽古じまい』
組事務所及び車元宅においてお囃子やからくりの稽古を行う

○4月26日山車組上げ。
○5月2日車元及び事務所の飾り付け、神前神社において幟起こし、役割を行なう。
○5月3日･4日祭礼。
○5月5日『山車おろし』

『山車おろし』＝山車の解体。支払いをすませ年間の収支決算。夕食後、旧車元から新車元へ打ち込みをし、祭礼行事は終わる。

旧車について

	旧車は弘化5年（1848）板山の大湯組へ譲渡
	現在は、知多市北粕谷が所有しているが休止中。
	創建年代は、定かではないが、木箱に『文政八酉八月　前二重臺　西組』の墨書がある。（文政年間には、建造されていただろう）
	彫刻は、金箔や彩色を施し現車とは、かなり異なる。


現車について
◎弘化3年（1846）
○立川和四郎富昌　

	壇箱『太平楽、楽人』
	脇障子『葡萄取り仙人』
	前山蟇股『百羽雀、稲穂に雀』


○初代彫常

	前山懸魚『飛龍』（大正3年）
	蹴込『布袋の袋曳き』（大正10年）

　
からくり人形について
亀崎の祭礼は、『神官』、『石橋』の2体のからくりを演じる。

	上山『桜花唐子遊び』


幕について

	大幕　緋羅紗に金糸刺繍（文様は、日本の伝統楽器等）
	追幕　緋羅紗に桜花の樹下に御所車と人物の刺繍（下絵は月泉）
	水引　白羅紗に御廉の金刺繍


半田博物館発行「からくり」より
上山人形『桜花唐子遊び』
二体の唐子が、桜の枝を渡る、離れからくりである。製作年代は、天保年間とされる。製作者は不明。

前棚人形『神官』
天保年間、五代目玉屋庄兵衛の製作。 </description>
		<link>http://nansya.net/hyakuryou/568</link>
			</item>
	<item>
		<title>第10輌：中切組力神車：亀崎地区：半田市</title>
		<description>
尾張の山車まつり　管理人novaさま　ご提供

	祭礼日
	5月3、4日
	見所
	海浜への山車の曳き下ろし調子のよい　軽快な祭り囃子
	創建年
	天明以前
	現車は文政9年　建造
	主な彫刻
	壇箱　「海棠に親子鶏　力雄神　力雌神」（立川和四郎富昌）
	脇障子　「張子房乗龍　黄石公馬上」（立川和四郎富昌）
	持送り　「立波に千鳥ー透彫り」（立川和四郎富昌）
	幕
	大幕　巌・竹に虎　巌・松に虎
	追幕　緋羅紗地に翁の面刺繍
	水引　羅紗地に青色濃淡の刺繍と薄茶色濃淡の龍文様の縫いつぶし


半田博物館　展示解説より
潮干祭りについて

	毎年5月3･4日の2日間に行われる
	5輌の山車を曳き廻す
	各山車は、素木彫刻や幕等の装飾を施し、県指定文化財である。

山車について

	創建年代は定かではない
	現在の山車は、文政年間に諏訪の立川一門が彫刻を手懸け、ほぼ現在の形になった。（この時の記録として、『山車彫刻仕用帳并金銀請取留』が、中切組に保存されている。）

cf:『山車彫刻仕用帳并金銀請取留』によれば
文政10年（1827）3月、2代目立川和四郎冨昌と冨昌の長女冨の夫である常蔵昌敬に発注し、総費用104両2分と祝儀6両2分合計111両で完成したことが記されている。

立川流について
立川一門は、18世紀頃から諏訪に居を置き各地の社寺の彫刻を手懸けた彫刻師
○初代富棟
江戸の幕府御用達建築彫刻師立川小兵衛富房の元で修行し、明和5年（1786）諏訪に帰り仕事をはじめた。安永9年（1780）には、諏訪大社秋宮拝幣殿を手懸け、文化元年（1804）には、静岡市浅間神社の建築工事に息子富昌を始め多数の弟子ともに加わった。この工事は、嘉永年間(1850年代)に完了した。

○2代目立川和四郎富昌
天明2年（1782）に富棟の長男として生まれた。彼は、建築彫刻の他、山車彫刻も手懸けた。建築彫刻は、長男富重、次男富種、長女富の夫、常蔵昌敬等多くの弟子とともに諏訪大社上社本宮宮拝幣殿、豊川稲荷などの社寺に彫刻を施した。

彫刻について
2代目立川和四郎冨昌

	蹴込　『牡丹に唐獅子』
	持送り　『立波に千鳥』>
	壇箱　『海棠に親子鶏・力雄神・力雌神』
	脇障子　『張子房乗龍・黄石公馬上』など

からくり人形について

	前山　猩々を舞うcf:猩々とは、能の曲名である。元来、中国の伝説を演じたものである。安政年間（1854～1859）5代目玉屋庄兵衛が製作した能装束の人形が、後ろ向きになった瞬間猩々の面を付け前を向き乱を舞い能の一場面を演じる。
	上山人形　面かぶり大正13年　6代目玉屋庄兵衛製作の浦島太郎の話を演じるcf:尾張名所図会小治田之真清水に描かれている力神車の上山には、2体の唐子を飾っている。このからくり人形は肩車をし、上の人形が梅の木の枝に宙吊りになったということである。

幕について

	大幕　向かって左側は、巌・竹に虎　右側は巌・松に虎（越前守岸駒の下絵）
	後幕　松に虎の刺繍
	追幕(見送り幕)　緋羅紗に翁の面刺繍
	水引　羅紗地に青色濃淡の地繍と、薄茶色濃淡の龍文様の縫いつぶし。

吹き流しは、上部に白線、下部に桐、鳳凰の刺繍。
半田博物館発行「からくり」より
上山人形『浦島』
尾張名所図会小治田真清水に描かれている力神車の上山には、二体の唐子がある。このからくりは、時計の脱進装置を付け、肩車をし、梅の枝に宙吊りになった。
現在の人形は、浦島太郎の話を演じる面かぶりである。大正十三年、六代目玉屋庄兵衛の製作。
前棚人形『猩々』
　このからくりは、後向きになった瞬間に猩々面をかぶる仕掛けが特色である。安政年間、五代目玉屋庄兵衛の製作。 </description>
		<link>http://nansya.net/hyakuryou/566</link>
			</item>
	<item>
		<title>第9輌：田中神楽車：亀崎地区：半田市</title>
		<description>
尾張の山車まつり　管理人novaさま　ご提供

	祭礼日
	5月3、4日
	見所
	海浜への山車の曳き下ろし調子のよい　軽快な祭り囃子
	創建年
	天明8年以前
	現車は天保8年　建造(旧車は　碧南大浜へ譲渡)
	主な彫刻
	壇箱　「鉄拐仙人・蟇仙人・花鳥」（立川常蔵昌敬）
	脇障子　「三国志　関羽・超雲・阿斗」（立川常蔵昌敬）
	持送り　「波に亀」（立川常蔵昌敬）
	幕
	大幕　緋羅紗地に牡丹と唐獅子の刺繍
	追幕　緋羅紗地に桜と孔雀の刺繍
	水引　雲と霞と蝶の金刺繍


半田博物館　展示解説より
潮干祭りについて
5輌の山車(東組宮本車･石橋組青龍車・中切組力神車・田中組神楽車・西組花王車)を曳き回す。各山車は、素木彫刻や幕等の装飾やからくり人形を有し、県指定文化財である。　
亀崎のからくり人形について
半田市内山車の内19輌の山車において27体(亀崎西組の『石橋』も含む)のからくり人形がある。

	亀崎地区には、11体
	
		東組　上山人形『湯取神事』、前山人形『三番叟』
		石橋組　上山人形『唐子遊び』、前山人形『布ざらし』
		中切組　上山人形『浦島』、前山人形『猩々の舞』
		田中組　上山人形『傀儡師』、前山人形『巫女の舞』
		西組　上山人形『桜花唐子遊び』、前山人形『神官』と『石橋』
	
	
	田中組の上山人形『傀儡師』は、天明年間（1781～1789）に製作
	傀儡師人形が、船弁慶を演じる糸からくり
	前山人形『巫女の舞』の製作者は不明。（文化文政年間に製作）

cf:傀儡師とは、江戸時代、首から箱を下げ胸のところで木偶人形を操った大道芸人である。この種のからくりは、摂津名所図絵の中に、船弁慶の一場面が描かれている。からくりの全国調査を行った山崎構成氏は、『唯一の曳山奉納戯である』と言っている。　
山車について

	創建年代は、定かではない
	旧車は、中ノ切組(碧南市大浜)に譲渡された。(天明8年（1788）)
	岸幕善兵衛が建造（天保8年（1837））
	諏訪の立川和四郎富昌、常蔵昌敬が彫刻を付けた。

彫刻について

立川常蔵昌敬

	蹴込『唐子遊び』
	持送り『波に亀』
	壇箱『蟇仙人、鉄拐仙人、花鳥』
	脇障子『三国志、関羽、超雲と阿斗(劉備)』
	太瓶鰭『獏』
	前山懸魚『太真王文人、波と龍』


立川和四郎冨昌

	前山蟇股『三国志、張飛、劉備、関羽(桃園の誓い)]、『粟穂に鶉』等



幕について

	大幕　緋羅紗に牡丹と唐獅子の刺繍
	追幕　緋羅紗に桜と孔雀の刺繍
	水引　雲と霞と蝶の金刺繍

cf:大幕、追幕、水引の下絵は、福田翠光画伯筆である。
半田博物館発行「からくり」より
上山人形『傀儡師』
天明年間の記録によれば、上山人形は、乱杭渡りであった。現在は、傀儡師が、『舟弁慶』の人形を操っている場面を演じる。製作年代は、天明年間とされる。製作者は不明。
前棚人形『巫女の舞』
製作年代は、文化文政年間とされる。製作者は不明。 </description>
		<link>http://nansya.net/hyakuryou/564</link>
			</item>
	<item>
		<title>第8輌：浅井山宮本車：乙川地区：半田市</title>
		<description>



	祭礼日
	3月下旬の土日
	見所
	八幡社境内の豪快な坂上げ　坂下ろしけんか祭りの異名あり！
	創建年
	現車は安政6年　建造昭和25年に　大改造
	主な彫刻
	壇箱　「竹林七賢人」（立川和四郎富昌）
	脇障子　「布袋和尚喜捨之図　福禄寿福履之図」（立川角三郎　音吉）
	持送り　「力神」（初代彫常）
	幕
	大幕　緋羅紗の無地
	水引　雲竜文様の金糸刺繍　（下絵　鬼頭　道周）


半田博物館　展示解説より
乙川村祭礼山車絵図について

	宝暦5年（1755）
	乙川八幡社に保存されている。
	先頭は獅子、その後に神輿（みこし）とそれと供奉して神主、二人の庄屋、組頭が四人、差樽とつづき、その後に4輌の山車がくる。
	この行列は、山車は神輿の警固（警護）であることを示している。
	乙川村では宝暦2年（1752）正月に祭礼の法式を改革して『定』を作成している

『定』・『祭礼定日之事』として
『唯今之通正月十五日十六日若雨天亦ハ如何様之指支出来仕候ハヽ指延シ置始楽本楽両日急度相勤可被申被』とある。乙川村の祭礼の定日は旧暦正月十五日、十六日であった。絵図に描かれた4輌の山車の先頭を行くのが浅井山宮本車である。上山には『小鳥丸夢の助太刀からくり人形』を乗せている。宮本車というのは、地縁によって分割した山車組の地域の中に氏神が所在地を含まれている場合に付けられる名称である。従って巡業の際は山車の先頭を行き、前山で三番叟を奉納する。
　浅井山宮本車の壇箱彫刻『竹林七賢人』は安政6年（1859）に立川和四郎富重が彫ったものである。脇障子の『牛若丸烏天狗』前山懸魚『牛若丸烏天狗』はともに地元乙川の彫師である立川和四郎の弟子立川角三郎が安政6年（1859）に彫ったものである。持送りの力神は大正11年に蹴込みの『舟遊び』は昭和25年に初代新美常次郎が彫ったものである。 </description>
		<link>http://nansya.net/hyakuryou/560</link>
			</item>
	<item>
		<title>第7輌：南山八幡車：乙川地区：半田市</title>
		<description>


祭礼日
3月下旬の土日
見所
八幡社境内の豪快な坂上げ　坂下ろしけんか祭りの異名あり！
創建年
宝暦以前現車は宝暦年間　建造
大正6年に改造(宝暦5年に製作した旧車は　美浜町河和に売却)
主な彫刻
壇箱　「桃園の三傑」（初代彫常）
脇障子　「須佐之男命　稲田姫」（初代彫常）
持送り　「昇り龍」（初代彫常）
幕
大幕　緋羅紗の無地
水引　白地に群鳩飛翔

半田博物館　展示解説より
乙川の祭礼は、毎年3月下旬、乙川地区の氏神である八幡社と若宮社への山車の奉納と町内曳きを中心に行われている。
八幡社の起源は、定かではないが、棟礼によれば、大永2年(1522)8月に再建され、『入水上社』と言われていた。寛永元年（1624）11月の造営時には、『入水八幡宮』、文政9年（1826）の本殿造営時には、『八幡宮』、明治13年（1880）の拝殿の再建時には、現在の『八幡社』と言われていた。祭神は、文政9年（1826）戌10月の文書によれば、神功皇后、応神天皇、田心姫命、市拝嶋姫であった。大正4年（1915）現在の白山公園の白山社が合祀され連玉之男命、子象母津事解之男命、菊理姫命を加えた。
南車の山車は、宝暦5年（1755）の乙川村祭礼絵図に浅井山・殿海道山の山車に次ぎ現在と同様3番目を巡行している所が描かれ、上山には、『役正角大峯様からくり人形』(乱杭渡り）が飾られている。旧車は、美浜町河和中組に譲渡されたといい宝暦5年の銘がある。しかし、絵図に描かれている山車とは、大きく異なるので、この銘が建造の時期を示すかどうかは、疑問である。譲渡時期については、定かではないが、一説には慶応の頃とされている。このことから、現在の山車の建造年代は、明治初期ではないかと考えられている。
乙川の祭礼の中に、龍神祈祷と言う行事があり、この時南山は重要な役割を果たす。山車の巡行が終り、各組の山車をサヤに納める前に、南山単独で入水天神に神官が祝詞を上げ祭礼が無事終了したことを報告する行事である。この祈祷が終了した後、各組の山がサヤに納められる。
彫刻は、地元半田の彫師新美常次郎の蹴込『牡丹に唐獅子』、壇箱『桃園の三傑』、脇障子『須佐之男命』、『稲田姫』などが施されている。昭和60年には、高蘭を黒檀にした。
大幕は、緋羅紗の無地である。水引は、白地に群鳩飛翔、青海波(青色)、鳩(白･黒)、雲(紺色)の刺繍である。なお、寛政から文化の頃にかけて建造された旧車のものと思われる大幕が保存されている。 </description>
		<link>http://nansya.net/hyakuryou/558</link>
			</item>
	<item>
		<title>第6輌：西組御福車：岩滑地区：半田市</title>
		<description>


祭礼日
4月中旬の土日
見所
新美南吉の童話の中で紹介されたお祭りがコレ！
創建年
喜永5年以前
現車は大正7年　建造(喜永5年に建造された旧車は　板山小板組に売却)
主な彫刻
壇箱　「七福神」（初代彫常）
脇障子　「張良と黄石公」（初代彫常）
持送り　「三角板」（初代彫常）
幕
大幕　緋羅紗に鯉の滝登りの刺繍
追幕　緋羅紗に岩上の鷹の刺繍
水引　黒地に龍の金刺繍


半田博物館　展示解説より
祭礼について

祭礼は、毎年4月の第二土曜日、日曜日の2日間
八幡社において、からくり三番叟、神楽、巫女の舞等の奉納と町内曳き

八幡社について

八幡社は、岩滑で唯一つの旧村社
祭神は、『応神天皇、神功皇后、市杵島姫命、多岐津姫命、多岐理姫命』

cf:『八幡社は元和2年（1616）、神明社（すぐ隣)は元和4年（1618）の棟礼を最古とする。』(半田町史より）
cf:『元神明社が本社なりしが、中山勝時の岩滑を領せし時伊勢神宮の御師初穂の徴収に来れるより、中山氏之を忌み、自ら一寄進を以て八幡社を建設し、以て其初穂を謝絶せり」(中山家旧記より）
巫女舞について

巫女の舞は、昭和32年ごろから中止されていた
昭和57年度、はやし保存会を中心に復活することとなった。
巫女神楽は、義烈組が『宮神楽』、西組が『立神楽』（舞方は、やや勇壮）（それぞれ4番まで、15歳から20歳までの若衆が演奏する。）

囃子について

西組の囃子
岩滑新田の奥組に伝わり、三番叟と神楽は阿久比の植村のものと酷似しているらしい

義烈組の囃子

上半田北組から伝えられたとされ、岩滑新田平井組へ伝えた。
三番叟と神楽は阿久比の大古根村のものと酷似していたらしい

山車について

大正年間他地区の山車を買い入れ、改造したものである。

彫刻について

大正年間初代彫常（新美常次郎）　壇箱『七福神』、脇障子『張良と黄石公』、蹴込『竹に虎』、前山懸魚『松に鷹』等

幕について
平成5年度、山車改修事業として、一新

赤フェルト地に瀧を登る鯉、岩場と松、榊、の刺繍（平成５年度山車改修事業）
 </description>
		<link>http://nansya.net/hyakuryou/556</link>
			</item>
	<item>
		<title>第5輌：義烈組八幡車：岩滑地区：半田市</title>
		<description>


祭礼日
4月中旬の土日
見所
新美南吉の童話の中で紹介されたお祭りがコレ！
創建年
天明元年以前
現車は喜永2年　建造大正7年から8年間かけて大改造
主な彫刻
壇箱　「猪と仁田四郎　虎と和藤内十二支」（出羽看龍）
脇障子　「節分の図」（出羽看龍）
持送り　「角つなぎ」（初代彫常）
幕
大幕　緋羅紗地に親子龍の刺繍
追幕　緋羅紗地に竹・虎の刺繍
水引　緑地に群鳩飛翔の刺繍


半田博物館　展示解説より
岩滑は、北部を阿久比と接する位置にある。
祭礼について

祭礼は、毎年4月の第二土曜日、日曜日の2日間
八幡社において、からくり三番叟、神楽、巫女の舞等の奉納と町内曳き

祭礼の歴史について

天明元年（1781）には山車の祭礼が行われていたようだ。

cf:『年々六月十日ハ疫神祭礼相勤八月十五日ハ往古より当社八幡宮之御祭礼右両度共ニ山車并俄狂言執行到来リ候』（中組(義烈組)若連中からの口上書より　天明元年　1781）

江戸時代には中組、西組、東組の3組に分かれていた。
明治に入り中組と東組が合併し義烈組になった。

若衆組織について

初午がくると、その年に15歳になる者は、半強制的に入組して若衆となった。
（披露して酒二升を納めることになっていた。）((義烈組規則書より))
入組して27歳までが若衆、28歳以上は年寄
入組してから山車楫棒にとまれるまでの2～3年は、見習いとして小若衆

cf:明治30年から、昭和33年までの組員の入組時の連盟血判帳が、宝暦4年の『申合一礼之事』、明治25年改正の『総則』、年代不詳の『義烈組組規約』とともに綴られ保管されている。
山車について

嘉永2年（1849）に造られたといわれる。
大正2年4月3日半田町の石堂喜市に改築を依頼し現在の形になった。

彫刻について

出羽看龍(半田市で唯一)　壇箱『猪と仁田四郎、虎と和藤内、十二支』、脇障子『節分の図』
尾張藩御用彫師早瀬長兵衛　蹴込『子供獅子舞図』
初代彫常　前山蟇股『鉄拐仙人、蟇仙人』

幕について
平成5年度、山車改修事業として、一新

赤フェルト地に、『親子龍』の刺繍（静岡県大須賀町三熊野神社の『子持ち龍』　参考）
追幕　『竹に虎』
水引　『群鳩飛翔』
 </description>
		<link>http://nansya.net/hyakuryou/555</link>
			</item>
	<item>
		<title>第4輌：東組旭車：成岩地区：半田市</title>
		<description>
半田　協和　加藤様より

祭礼日
4月第2土日
見所
成岩神社への打ち込み善六角の出会い・曳き別れ
創建年
弘化3年
大正１１年　上半田北組から譲渡された山車を改造して現在に至る(立川和四郎富昌の彫刻作品は残して）
主な彫刻
壇箱　「唐子遊びと鶏」（立川和四郎富昌）
脇障子　「鉄拐仙人・蟇仙人」（立川和四郎富昌）
持送り　｢龍｣（初代彫常）
幕
大幕　緋に三玉の亀の刺繍
追幕　波に日の出の刺繍
水引　濃緑地に鶴の金刺


半田博物館　展示解説より
大正11年より上半田北組より山車の譲渡を受け、以後祭礼に山車を加えることとなった。しかし、上半田北組の旧車は弘化3年（1846）の建造であるため、その後まもなく立川和四郎富昌の壇箱彫刻"唐子遊びと鶏"、脇障子彫刻"鉄拐仙人・蟇仙人"等　数点をはずし、改造した車体にそれらを取り付けた。その後更に初代彫常こと新美常次郎によって前山蟇股の"恵比寿･大黒"、持送りの龍などが追加され、充実していった。普通出しの前山の屋根は二手先枓栱で桁を支えるが、旧上半田北組唐子車が一手先であったのであろうか、当旭車も一手先で受けているため、四天柱の間口は広くとれるものの、やや脇障子の幅が狭まる。しかし一方では前面の蟇股が広くとれて前山を引きたたせる。また、尾垂木にも彫刻を施したり、台輪の前方も木鼻に加工するなど、各種の彫刻が巧みに調和している。
前山県魚の"鶴の巣篭り"や前山紅梁の龍の浮彫りは肉厚のある重厚な彫りで、初代彫常の中でも傑作の一つである。
諏訪の立川和四郎富重は甥の常蔵昌敬とともに何度も来半しているが、弘化3年（1846）には上半田北組の唐子車と南組福神車に彫刻を入れている。富重と富昌は共同の作が多いが、当旭車の場合は、壇箱が富昌、また脇障子が昌敬によって彫られた可能性が強い。
大幕には緋羅紗の無地で縁取りがある。後幕は金銀糸による"旭車"の刺繍、追幕は緋羅紗地に太陽と波の刺繍、水引は緑地に白鶴の刺繍がそれぞれ施されている。 </description>
		<link>http://nansya.net/hyakuryou/552</link>
			</item>
	<item>
		<title>第3輌：西組神車：成岩地区：半田市</title>
		<description>


祭礼日
4月第2土日
見所
成岩神社への打ち込み善六角の出会い・曳き別れ
創建年
大正14年
昭和23年　修復
主な彫刻
壇箱　「薬湯の図」（初代彫常）
脇障子　「烏天狗と仙人」（初代彫常）
持送り　波に神字の浮彫り（初代彫常）
幕
大幕　緋羅紗地に風神・雷神と雲の刺繍
追幕　緋羅紗地に唐獅子と牡丹の刺繍
水引　白灰色羅紗地に波上に龍の刺繍


半田博物館　展示解説より
神車は大正年代に成岩北組成車を譲り受け、昭和22,23年に大改装を加え、さらに昭和56年に大幕・追幕を新調現車となった。
彫刻は初代彫常こと新美常次郎と、二代目彫常新美茂登司の手に成るものである。壇箱の『薬湯の図』　蹴込みの『大江山酒呑童子』脇障子の『烏天狗』など、彫刻としては独創的な彫刻が多い。その他前山蟇股の『弁慶の勧進帳』、字送りの『波に神字の浮き彫り』など、爛熟した彫常ならではの作品といえよう。特に猫足などの細かい彫刻群にも目を見張るべきものがある。
半田型の山車は繊細な彫刻で覆われていることも特色であるが、山車の各部で使用される材がほとんど一定していることも特色といえる。例えば前山や上山の唐破風は欅の玉目、屋根は桐、台輪は欅、前山は紫檀、黒檀、黒柿などで、彫刻の大部分は欅である。輪は黒松の輪切りであるが、最近は入手難からブビンガなどの洋材を持ちいらざるを得なくなっている。梶棒は桧であるが、丸太を心から二つ割にして芯の方が内側に来るように２本作るのが一般的である。 </description>
		<link>http://nansya.net/hyakuryou/529</link>
			</item>
	<item>
		<title>第2輌：北村成車：成岩地区：半田市</title>
		<description>


祭礼日
4月第2土日
見所
成岩神社への打ち込み善六角の出会い・曳き別れ
創建年
大正13年
主な彫刻
壇箱　「元寇」（初代彫常）
脇障子　「元寇」（初代彫常）
持送り　三ツ巴浮彫り（初代彫常）
幕
大幕　緋羅紗地に牡丹・唐獅子の刺繍
後幕　成車の金刺繍
追幕　緋羅紗地に鷹・松の刺繍
水引　紫羅紗地に鳳凰の刺繍


半田博物館　展示解説より
成岩神社の祭礼に曳き出される山車は四輌である。成岩神社に最も近い宮本である南組が、初めて山車を建造したのが宝暦2年（1752）であり、当初祭礼に曳き出される山車は1輌であった。嘉永2年（1849）の『本成岩神事祭礼』によると、北村・南・西馬場・東馬場の四組があり、うち南組は山車、他の三組は獅子舞を奉納したようである。北組の『大獅子・小獅子の舞』は格調高く現在も継承されており、県指定無形文化財となっている。幕末から明治にかけてのことは不明な点が多いが、現在のように四輌のだしがそろったのは大正年間で、成車が建造されたのは大正13年のことである。
一般に山車彫刻は長い年月をかけて徐々に入れるものであり、完成までに数十年を要するが、成車は一気に建造しているため、全体の調和がよくとれている。特に、彫刻は初代彫常(新美常次郎)の最も充実した作品が入っており、上半田北組唐獅子車、下半田中組祝鳩車などと並んで彫常の代表作の一つとされている。主要彫刻の図柄は時代を反映して壇箱、脇障子、前山蟇股等『元寇』の図柄で統一されているが、細部には『牡丹に唐獅子』等の伝統的なものもある。彫刻はすべて紫檀、黒檀、鉄刀木、欅などの唐木を用い、持送りの巴には18金を使うなど、贅を尽くしている。
幕類については、吹流しを除いて昭和57年に新調、面目一新した。 </description>
		<link>http://nansya.net/hyakuryou/548</link>
			</item>
	<item>
		<title>第1輌：南組南車：成岩地区：半田市</title>
		<description>


祭礼日
4月第2土日
見所
成岩神社への打ち込み善六角の出会い・曳き別れ
創建年
宝暦２年
主な彫刻
壇箱　「馬師皇と龍」（立川和四郎富昌）
脇障子　「松と鷹」「柘榴」（瀬川治助重光）
持送り　「力神」（初代彫常）
幕
大幕　緋羅紗地の無地
追幕　緋羅紗地に昇竜・雲の金刺繍
水引　白羅紗地に龍の刺繍
三番叟
「舌出し三番叟」
祭囃子…能管使用
「遊神楽」「車切」「歌神楽」「早神楽」「大神楽」
祝い込み…草笛使用
「百度神楽」


木遣
全国各地で色々な木遣の形が残っている。元々は建物の建前の儀式のときに唄われていたものらしく、祭の一部に取り入れるようになったのはごく最近のことで当山車組では｢打ち出し前｣｢三番叟前｣に唄われている
三番叟とは
三番叟とは、能、狂言の曲目の一つである。古くは、猿楽に父尉、翁、三番の舞があり、この内三番目の老人を指して三番猿楽と言われた。室町時代に父尉がなくなり千歳、翁、三番叟になり現在に伝えられ『式三番』とも言われる。江戸時代には、歌舞伎の一系統として『寿式三番』、『舞鶴三番叟』、『種蒔三番叟』、『操三番叟』、『舌出し三番叟』、『二人三番叟』等、多数の三番叟物が演じられるようになった。民間には五穀豊穣を祈る民俗芸能として形を変え伝承された。半田市内では祭礼行事として、各地区の宮本車の前棚においてからくり三番叟の舞を神社に奉納する。これは、前棚の後方から三人の操り者が前方からは見えないように笛、大鼓、小鼓、拍子木に合わせ舞わせる、かくれ三人遣いである。（半田市立博物館　発行　「からくり」より）
南車の場合は、・扇子（右手）＋頭・手（左手）＋胴・脚の三人で一体の人形を舞わせる
囃子の補足
祭囃子とは　別に毎月の一日祭（月次祭＝つきなみさい）では道吹き（みちびき）、神楽（「オッピリヒャイト」「タカヤマ」「オマンネ」「ウヒャララ」｢早神楽｣）が奉納される
半田博物館　展示解説より
歴史について
宝暦2年（1752）建造
寛政9年（1797）文化2年（1809）、明治14年（1939）再建

[caption id="attachment_885" align="alignnone" width="240" caption="昭和14年に山車の再建の際に作られた後方妻台輪の内側の墨書"][/caption]
幕について
大幕　猩々緋
[caption id="attachment_890" align="alignnone" width="320" caption="半田市　成岩地区　南組南車　大幕"][/caption]
後幕　『南連中』の文字の金糸刺繍
[caption id="attachment_891" align="alignnone" width="240" caption="半田市　成岩地区　南組南車　大幕　後ろ"][/caption]
水引　ベージュの羅紗地に龍の刺繍
[caption id="attachment_895" align="alignnone" width="320" caption="半田市　成岩地区　南組南車　水引　後ろ"][/caption]
[caption id="attachment_896" align="alignnone" width="320" caption="半田市　成岩地区　南組南車　水引　ハ通り"][/caption]
[caption id="attachment_897" align="alignnone" width="320" caption="半田市　成岩地区　南組南車　水引　イ通り"][/caption]
追幕
[caption id="attachment_893" align="alignnone" width="240" caption="半田市　成岩地区　南組南車　追幕" "][/caption]
[caption id="attachment_902" align="alignnone" width="320" caption="半田市　成岩地区　南組南車　追幕　裏"][/caption]

これらの幕の箱書『文政四年己六月』の墨書。これは当時大阪大丸呉服店で五十両を投じて作ったという伝承が残されている。

当時の水引
[caption id="attachment_899" align="alignnone" width="320" caption="半田市　成岩地区　南組南車　当時の水引　イ通り"][/caption]
[caption id="attachment_900" align="alignnone" width="320" caption="半田市　成岩地区　南組南車　当時の水引　後ろ"][/caption]
[caption id="attachment_901" align="alignnone" width="320" caption="半田市　成岩地区　南組南車　当時の水引　ハ通り"][/caption]

当時の追幕
[caption id="attachment_894" align="alignnone" width="240" caption="半田市　成岩地区　南組南車　当時の追幕"][/caption]

目や爪に銀の塗りの金属がついている。

[caption ...</description>
		<link>http://nansya.net/hyakuryou/443</link>
			</item>
	<item>
		<title>天王祭　6/8_3　筒井町・出来町　東区　名古屋市(平成20年)</title>
		<description>[gallery link="file"] </description>
		<link>http://nansya.net/teku/june/513</link>
			</item>
	<item>
		<title>天王祭　6/8_2　筒井町・出来町　東区　名古屋市(平成20年)</title>
		<description>[gallery link="file"] </description>
		<link>http://nansya.net/teku/june/480</link>
			</item>
	<item>
		<title>天王祭　6/8_1　筒井町・出来町　東区　名古屋市(平成20年)</title>
		<description>[gallery link="file"] </description>
		<link>http://nansya.net/teku/june/457</link>
			</item>
	<item>
		<title>天王祭　6/7　筒井町・出来町　東区　名古屋市(平成20年)</title>
		<description>[gallery link="file"] </description>
		<link>http://nansya.net/teku/june/444</link>
			</item>
	<item>
		<title>南組南車彫刻「持送り」「蹴込み」</title>
		<description>持送り

作者
初代彫常
製作年間
大正3年　ちなみに壇箱を支える柱も同時に納められている

[caption id="attachment_938" align="alignnone" width="437" caption="南組南車 壇箱下部 初代彫常作　ハ通り側　「力人」"][/caption]
[caption id="attachment_939" align="alignnone" width="424" caption="南組南車 壇箱下部 初代彫常作　イ通り側　「力人」"][/caption]
蹴込み

作者
初代彫常
製作年間
大正9年

[caption id="attachment_937" align="alignnone" width="270" caption="南組南車 壇箱下部 初代彫常作 蹴込み「五人囃子」"][/caption]
[caption id="attachment_936" align="alignnone" width="270" caption="南組南車 壇箱下部 初代彫常作　蹴込み「五人囃子」の裏"][/caption] </description>
		<link>http://nansya.net/minami/sculpture/427</link>
			</item>
	<item>
		<title>南組南車の壇箱彫刻</title>
		<description>南組南車 壇箱　立川和四郎富昌作「馬師皇と龍」

作者
立川和四郎富昌
製作年
推定　天保期

[caption id="attachment_954" align="alignnone" width="270" caption="南組南車 壇箱　立川和四郎富昌作「馬師皇と龍」"][/caption]

[caption id="attachment_950" align="alignnone" width="270" caption="南組南車 壇箱　立川和四郎富昌作「馬師皇と龍」　龍側　波"][/caption]
[caption id="attachment_952" align="alignnone" width="270" caption="南組南車 壇箱　立川和四郎富昌作「馬師皇と龍」の龍"][/caption]
[caption id="attachment_953" align="alignnone" width="270" caption="南組南車 壇箱　立川和四郎富昌作「馬師皇と龍」の馬師皇"][/caption]
[caption id="attachment_951" align="alignnone" width="270" caption="南組南車 壇箱　立川和四郎富昌作「馬師皇と龍」　馬師皇側　馬"][/caption]

ここからは作者を知りません。(鋭意調査中ってことで)
[caption id="attachment_955" align="alignnone" width="270" caption="子丑"][/caption]
[caption id="attachment_949" align="alignnone" width="270" caption="寅卯辰巳午"][/caption]
[caption id="attachment_947" align="alignnone" width="270" caption="未申酉"][/caption]
[caption id="attachment_946" align="alignnone" width="270" caption="戌亥"][/caption] </description>
		<link>http://nansya.net/minami/sculpture/407</link>
			</item>
	<item>
		<title>亀崎潮干祭　5/4_1　半田　春の山車まつり(平成20年)</title>
		<description>[gallery link="file"] </description>
		<link>http://nansya.net/teku/may/337</link>
			</item>
	<item>
		<title>亀崎潮干祭　5/4_2　半田　春の山車まつり(平成20年)</title>
		<description>[gallery link="file"] </description>
		<link>http://nansya.net/teku/may/370</link>
			</item>
	<item>
		<title>下半田　4/20　半田　春の山車まつり(平成20年)</title>
		<description>[gallery link="file"] </description>
		<link>http://nansya.net/teku/april/336</link>
			</item>
	<item>
		<title>名古屋の祭人</title>
		<description>囃子の特徴

囃子は、大太鼓1名、つけ太鼓2名、笛4～10名ほど、これに鼓が入ります。だいたいこれが定番です。また、人形舞中や道中に楫方や腰周りから掛け声の入る部分もあります。名古屋の祭囃子や人形舞は能から由来するものが多いので、主に能管を使用しています。
囃子担当の衣装は祭浴衣を着用しており、男女で色が違うところもあります。
曲は　人形囃子、道行、しゃぎり　などがあり、道中必要に応じて演奏されています。

名古屋が各地の囃子のルーツではないかと言われています。囃子を聞くと、自然にジゴトが口をついて出てくるほど、馴染をすぐに感じられるはずです。

木遣り
木遣りも見所の一つです。山車が動き出す前に、木遣りを唄い上げ、気合を入れて前進し始めます。
前半の独りで唄う部分がありますが、これを「シン」と呼びます。「この人の為なら命をかけて山車を曳こう」と誰もが認める人物のみが木遣りのシンを唄うことができるのです。祭を思う名古屋おとこの心意気ですね。ルーツは永田組（名古屋で唯一現存する楫方組）です。
永田組の説明もいつかします。

 </description>
		<link>http://nansya.net/nagoya/kiso/101</link>
			</item>
	<item>
		<title>名古屋の祭のはじまり</title>
		<description>名古屋のはじまり

徳川家康が作った城　名古屋城ができたことが、名古屋が大きな発展をする始まりとなりました。徳川家康は、関が原の戦いの後、豊臣方の残存勢力と西国の大名たちを抑えるため、清洲城に第9子義直を送りましたが、清洲は水害が多く、城下町の建設に適さないと判断し、海陸の連絡に便利な那古野の地に、慶長15年（1610年）名古屋城を建設したそうです。これに伴い清洲の士民が現名古屋市に移り住み（清洲越し）、市街地が出来ました。

祭文化が大発展
名古屋の祭りのはじめとして　名古屋三大まつり　というものをご紹介します

(1)東照宮
東照宮といえば、全国各地にあります。なかでも日光東照宮は、大変有名ですね。
東照宮とは、徳川家康を御祭神としている神社のことを言います。
今回取り上げます東照宮祭というのは、三の丸天王社傍らに建てられた(元和四年～五年　建造）東照宮のお祭りのことを指します。
当時の三の丸天王社も東照宮もありませんが、明治初期に丸の内に移され、城内に鎮座していた当時と同様に現在も並んで鎮座しています。名古屋最大の祭で、戦前までの名古屋祭りといえば　この東照宮祭を指していました。元和四年　家康の三回忌にあたる年の四月、初めて東照宮に練り物が出されたようです。また翌年、元和五年（1619）には能人形の乗る車が曳かれ、さらに翌元和六年（1620）には、からくり人形を載せた橋弁慶車が登場し、万治元年（1658）には現在の名古屋型の原型が現れたとされています。


東照宮祭で曳かれていた山車は9輌


七間町（1620）…橋弁慶車
和泉町（1652）…雷電車
桑名町（1658）…湯取車(現・東区筒井町湯取車）
本町（1658）…猩々車
中市場町（1704）…石橋車
京町（1707）…小鍛冶車
上長者町（1732）…二福神車
伝馬町（1733）…林和靖車
宮町（1756）…唐子車


宝暦6年に、9輌が揃いました。戦争で焼失してしまい、現存しているのは、桑名町の旧車　湯取車(現・東区筒井町湯取車）のみです。

(2)若宮八幡宮
大宝年間（701～704）に　三の丸に創建、延喜年間（901～923）に再興といわれています。
天文元年（1532）に社殿を焼失、天文8年（1540）再建されました。
慶長15年（1610）の名古屋城築城の際に現在地　中区栄に遷座。祭礼の始まりは、延宝二年（1674）に黒船車などの山車が登場し、明和9年（1772）までに山車７輌が揃いました。しかし、戦争で焼失してしまった山車や、若宮から離れてしまった山車もあり、現在では福禄寿車（延宝四年（1676））を残すのみとなりました。

(3)三の丸天王社（現那古野神社）
近世（1568～1853）の名古屋の町が形成される以前から車楽があったとされています。文政年間には車楽に献燈する目的の見舞車が登場しました。

徳川宗春（尾張七代藩主）によって祭文化が大きく発展したそうです。詳細はこちらまた他にも熱田の大山など、各地で現在の祭の原型となるものがあったそうですが、戦争によって焼失したり、途絶えたりしてしまいました。 </description>
		<link>http://nansya.net/nagoya/kiso/99</link>
			</item>
	<item>
		<title>名古屋型の山車（名古屋型ってどんな特徴のことをいうの？）</title>
		<description>構造の特徴
まず、特徴としては二層構造であることです。 また上山の屋根を細い四本柱で支えています。 あれ？これじゃ知多型も同じですね。いいえ、特に二層目に注目してください。なんと人形が乗っています。これがすべてからくり人形になっているのです。

名古屋の山車の一番の特長はからくり人形を見せるために適した造りになっていることなんです。観やすい高さ、からくり仕掛けの屋根の昇降等。これは名古屋城の門をくぐるために考案された仕掛けです。

前後筒抜けになっています。また山車の側面は、開いており、風通しがよくなっています。人が乗る部分については1.5メートルほどの横幅があり、大人3人が並んでも余裕の広さがあります。
山車の大きさは町の道幅で測ることが出来ます。名古屋でも本町筋の福禄寿車は山車が大きいのに対し、花車の山車は細い路地も曳く必要あるため小振りです。

楫の特徴

輪が外側についています。そのままむき出しでは人を巻き込む恐れがあるので、枠（輪懸）も付いています。また、外側についている理由としては、楫の取り方にも特徴があることを示しています。

この棒（テコ）を持っている人たちも、楫を取るのに重要な仕事をします。

楫方は、前楫につきます。梶棒一本につき4人の合計8人で担ぎ上げます。楫方が担ぎ上げ、腰周りがテコ棒で輪を送ったり（前へ回転させる）輪を引いたり（後へ回転させる）して山車を回転させます。いかに美しく綺麗にそして優雅に、障害物に当てずに向きを変えられるかがポイントのようです。

山車前方を担ぎ上げるので、山車が傾きますよね。その状態で向きを変えていくので、車輪は外側についているほうがより安定するというわけです。また、先述の通り、名古屋城下の道幅は広いので幅の広い外輪の山車が建造できたであろうと考えられます。

楫については、特に見所だと思います。方向転換をするたびに、見入ってしまいます。数は少ないイベントですが、独りで山車を担ぎ上げ、楫方(切師)の力自慢を見せる「力持ち」は名古屋おとこの一番の見せ場だと思います。また、180度回転する「どんてん」や、270度回転する「半八重」、450度以上（一周以上）回転する「本八重」も稀に見ることができます。
名古屋の祭では、津島や横須賀のように何周も回転する｢車切」や「どんてん」は見ることが出来ません。どこかで「スーパーどんてん」という言葉を耳にしたこともありますが、正体なんでしょうね </description>
		<link>http://nansya.net/nagoya/kiso/100</link>
			</item>
	<item>
		<title>亀崎潮干祭　5/3_3　半田　春の山車まつり(平成20年)</title>
		<description>[gallery link="file"] </description>
		<link>http://nansya.net/teku/may/266</link>
			</item>
	<item>
		<title>亀崎潮干祭　5/3_2　半田　春の山車まつり(平成20年)</title>
		<description>[gallery link="file"] </description>
		<link>http://nansya.net/teku/may/242</link>
			</item>
	<item>
		<title>亀崎潮干祭　5/3_1　半田　春の山車まつり(平成20年)</title>
		<description>[gallery link="file"] </description>
		<link>http://nansya.net/teku/may/230</link>
			</item>
	<item>
		<title>はんだ　交通の発達</title>
		<description>三河と伊勢を結ぶルート


三河⇒英比湊か小河湊へ渡り、半島を横断して⇒大野港⇒伊勢
三河⇒成岩⇒常滑大野⇒伊勢

このルートは、当時、知多全域を治めていた一色氏が積極的に発展させたとされる。
(大野を治めることで、急激に一色氏は勢力をのばしていていった） </description>
		<link>http://nansya.net/siryou/handa/120</link>
			</item>
	<item>
		<title>はんだ　村の発展</title>
		<description>人口
昭和12年に半田町・亀崎町・成岩町が合併し半田市となったのだが、成岩町自体も明治22年（1980）に町制をしかれたあとに作られた町であり、それ以前は成岩村とされ、贄代郷の常滑領に属していた。しかし、尾張志（天保14年　1843）によれば、成岩村は本郷と「板山」「西成岩」「北荒井」の三枝邑を有すると記されている。

成岩村手鑑、半田市誌によれば、

寛文11年(1671)
戸数　365戸
人口　3063人
元禄6年(1964)
家敷　590軒
人口　3445人

現在の成岩3区のある場所はほとんどが海（下記参考）で、神社、南憩いの家、無量寿寺、波寄神社のライン沿いに浜であったため人は住んでいなかった。新田の改修により他からの移住者が増えた。

享保9年(1725)
家敷　760軒
人口　4208人
文政5年(1822)
戸数　1076戸
人口　4945人
人口12,938人
昭和8年
戸数　2771戸
人口12,938人

参考：武豊町字馬場から本町字保示田、内濱田、東西馬場から長沼、青木、天神田の一部、東西神田の一部、大畑、仲奥、蓮根、宮前の一部、西家下、南瀬古の一部、南家下、寺坊より中島に至る一帯の低地は昔は海水が浸入していたところである。（成岩町史より)

新田の開拓

明治23年にできた成岩町は、板山　西成岩・彦津　馬場・南組　北村　北荒居(現在の協和)の５区で区切られている。明治4年廃藩置県が行われた。 </description>
		<link>http://nansya.net/siryou/handa/121</link>
			</item>
	<item>
		<title>半田博物館 「からくり」 資料 列品解説より</title>
		<description>乙川祭礼山車絵図
この絵図は、宝暦五年(1755)尾張藩からの触状によって作成されたもので、
当時の祭礼行事と御輿や山車の古い様式を伝えるものである。

“半田市　乙川八幡社蔵”

八幡宮祭礼式の図
乙川祭礼山車絵図と同種のもので、宝暦五年(1755)の御輿渡御の様子を示す。

“知多市　尾張八幡神社蔵” </description>
		<link>http://nansya.net/siryou/karakuri/118</link>
			</item>
	<item>
		<title>半田のからくりの生まれ</title>
		<description>鬼頭　秀明　先生の文章を　私なりに読み込んでみました。

山車からくりのはじめ
尾張のからくり人形の歴史は『大山』『車楽（だんじり）』という、初期山車文化の頃から始まる。
熱田、津島の『大山』が有名だったが、明治以降途絶えてしまった。
その後、慶長15年（1610）より　山車からくり文化が栄える。
当時の大山からくり人形は、立居人形（＝神の化身）を、『手』と『首』だけ動くようにした。
簡単な滑車仕掛けのものだった。
この大山からくり人形の下地があったおかげで、上方から新しい技術が伝わってきても容易に取り入れ、独自に改良を進められた。
城下町の名古屋三大祭り（東照宮、若宮八幡社、三の丸天王社）と、ともにからくりは　発達。

東照宮にて
元和6年（1620）　名古屋で初めて山車からくり『橋弁慶』が乗る。
当時は　屋根のない１層の山車であった。
（万治元年（1658）に二層外輪の『名古屋型』の山車が登場してくる）

尾張地方の山車の構造

(1)名古屋型
二層大将人形と呼ばれる手と首だけが動く人形＝後身体的な意味をもつ（大山以来の伝統）
(2)犬山型
三層
(3)知多型
二層

(2)も(3)も　唐破風を四本柱で支えて　主役のからくりの踊る舞台とする。＝前壇 </description>
		<link>http://nansya.net/siryou/karakuri/113</link>
			</item>
	<item>
		<title>からくりの技術発展</title>
		<description>鬼頭　秀明　先生の文章を　私なりに読み込んでみました。

上方から興行を専門にした『竹田からくり』の技術が伝わる。

享保16年（1731）頃
幕府より『質素倹約政策』が布かれていたにも関わらず 尾張七代藩主『徳川宗春』は　当時簡略化されていた東照宮祭礼を享保８年の頃の姿に戻したり、 芝居小屋や遊郭の設置を許可した
そのおかげで　尾張藩は　三都に勝る繁栄ぶりであった
…宗春の目に余る行動は　幕府から蟄居を命ぜられてしまう

が！！！

すでに名古屋には自由化されたときに各地より技術者が集まっていた。
その集団は　活躍できる時をじっと待ち、
後に名古屋独特な産業･文化が発達することとなる。

名古屋で生まれた人形たちは　全国各地に広く流れていく
名古屋とは異なる山車の形態の地方でも歓迎された

からくり人形は　主に『糸』と『サシガネ』を使っている。


(1)糸からくり系
人形が通常の動きや舞などを行うもの
(2)変身系
面かぶり、人体から祠や橋などに変化　袋から出現など
(3)倒立系
倒立芸を演ずるもの
(4)肩車・宙づり系
大木隅が小木隅を肩車し、小木隅が宙づりになるもの
(5)特殊系
乱杭渡り、綾渡り、大車輪文字書きなど

『サシガネ』とは　人形が動くように特殊仕掛けのある棒
(1)糸からくり
(2)～(5)離れからくり
単独で芸を演じる、数種類のからくりを組み合わせて芝居まで演じるものもある。
…知立の人形芝居
…美浜の上野間　など

からくり人形は　毎年の祭礼で　同じ内容を奉納するが
同じように操ることはできない

ここに　人々が愛し、飽きないところがある。 </description>
		<link>http://nansya.net/siryou/karakuri/114</link>
			</item>
	<item>
		<title>人形と祭の関係</title>
		<description>西角井　正太　筆　より　私なりに　解釈した内容を　以下に示す。

『人形に人間の穢れを移して河や海に流してしまうという考え方がある。』
現在でも六月祓え（みなづきばらえ）という呪法の一つが残っている。

穢れを移すのには、人形で体を撫でる（撫づる）＝から『夏（ナツ）』の語源ではないか（現在有力）

この考え方から
山車に飾った人形に体に溜まった悪しきものを持っていってもらおう
↓↓↓
山車人形は＝祟る神をおだてるため美しい形（風流）にしなければならない。


今から約330年ほど前、大阪『竹田からくり』の出現！（振子の原理によるもの）
時計技術の応用『津田家』尾張藩御用時計

上の二つより　名古屋でからくり人形が流行る。


山車からくり　大別

(1)人間と同じような動作をするもの
（舞う、文字を書く、太鼓を叩く…など）
(2)普通の人間にできない軽業をするもの
（逆立ち、肩車、乱杭渡り…など）＝放れ業
(3)人間にはできないことをするもの
（他の人物へ、霊体へ、社殿へ変化するもの）＝変身業
(4)芝居をする
（(1)(2)(3)の複合系）
 </description>
		<link>http://nansya.net/siryou/karakuri/112</link>
			</item>
	<item>
		<title>祭の起源は、疫病神を追っ払う？</title>
		<description>西角井　正太　筆　より　私なりに　解釈した内容を　以下に示す。

『季節の移り変わりは、神々の往来に由来するものと考えられていた。』
良い神もいれば厄災をもたらす悪しき神も降臨することもある。

『そもそも祭りとは、悪しき神々を鎮めるという意味を忘れてはならない。』
夏の逸り病気は、赤痢など　死亡率の高いものが多い
これは、疫病神の到来に由来するものだと考える←鎮めたい
神々を鎮めるための儀式を『御霊会（ごりょうえ）』という
代表的なものとして『祇園祭』
『祇園祭』とは、鉾と山に疫神を取り付かせて送り返そうというお祭り
ポイント！
『鉾』と『山』は、疫神の好む形にする

好む形とは…
鉾は高く！山は飾り立てられたもの！
↓↓↓
装飾豊かな作り物が芸能『風流（ふりゅう）』という

この『風流』が見物となり、人々に愛される祭りとなる由縁である。
鉾と山はもともと手で運んでいたが、風流化が進み、重く大きくなる
　　　↓↓↓
『山車』（ダシ）となる

もともとは当て字で形から…縦に書くと

山
車

なんとなく…鉾に見えてきませんか？？？
現在の各地にある山車のモデルは『八坂神社の祇園祭』（1500年頃）であろうと考えられる。 </description>
		<link>http://nansya.net/siryou/karakuri/111</link>
			</item>
	<item>
		<title>日本神話　成岩地区の神社の神様　成岩町史　書物編　その参</title>
		<description>成岩地区の神社
神社を紹介するにあたって、神様の名前見たって意味が分からないのでとりあえず…日本神話より登場人物紹介します。 簡単にね、簡単に。

イザナギ（男・兄）、イザナミ（女・妹）、この二人から神生み・国生みが始まる。たくさんの神々を生み、日本を形作っていく。石・木・海・水・風・山・野・火の森羅万象の神も生む。火の神カグッチを生む際にイザナミは火傷で死んでしまう。イザナギはイザナミを追い黄泉の国へ行くが、腐敗し、雷（いかづち）の乗ったイザナミの死体を怖がり、追いかけてくるイザナミから逃げ、イザナミと離縁する。
黄泉の国から帰ったイザナギは禊を行った際に、右目から「ツクヨミ」、左目から「アマテラス」、鼻から「スサノオ」を生んだそうだ。これで神生みは終わりらしい。
月読命（つくよみのみこと）は、性別に関する記述はなく、月を神格化した姿なので天照大神とは対。夜を治める。
天照大神（あまてらすおおみかみ）は、女神で太陽を神格化した姿。高天原治める。（伊勢神宮）
素盞鳴尊（すさのおのみこと）、牛頭（ごず）天皇と習合。男神。海原を治める。（津島神社　他に奉られている）
素盞鳴尊が天照大神の御統玉（みすまろのたま）を請いうけて、これをかんで吐き出された息から化生した神が八柱（五男三女神で所請八王子様である）ある。なんだか二人は誓約をしたそうだよ。


天忍穂耳尊（あまのおしほみみのみこと）
天穂日命（あまのほひのみこと）
天津彦根命（あまつひこねのみこと）
活津彦根命（いくつひこねのみこと）
熊野橡樟日命（くまのくすびのみこと）
多紀理姫命（たぎりひめのみこと）
湍津姫命（たきつひめのみこと）
市杵島姫命（いちきしまひめのみこと）


きりがないからここまでね。
そうそう、日本武尊ってヤマトタケルノミコトって読みます。


	郷社　成石神社
	天穂日尊
	少彦名命
	誉田別尊
	素盞雄命


	大己貴命
	日本武尊


	成岩町字宮前　氏子は257戸　四月十三日


	&#160;
	御鍬社
	猿田彦命
	春日社
	武甕槌命


	&#160;
	山神社
	大山祗命
	稲荷社
	稲倉魂命


	&#160;
	熊野社
	伊弉諾命
	天満社
	菅原道真公


	村社　成岩神社
	誉田別尊
	天津兒屋根命
	豊受姫命
	&#160;


	成岩町字南瀬古　氏子は北村・南組・東馬場・西馬場　1200戸　例祭は古来六月十五日であったが、炎暑の時候だとて、四月十五日変更された。


	&#160;
	松尾社
	大山咋命
	御鍬社
	猿田彦命


	村社　白山神社
	菊理姫命
	&#160;
	&#160;
	&#160;


	成岩町字白山　氏子740戸　例祭は五月六日


	&#160;
	龍神社
	豊玉姫命
	大神神社
	豊受姫命


	&#160;
	龍神社
	豊玉姫命
	大神神社
	豊受姫命


	&#160;
	山神社
	大山祗命
	秋葉社
	味鋤高彦根命


	&#160;
	天王社
	素盞雄命
	&#160;
	&#160;


	村社　板山神社
	天津兒屋根命
	天照大神
	應進天皇
	&#160;


	成岩町字五本木　氏子250戸　例祭は四月十六日


	&#160;
	山神社
	大山祗命
	&#160;
	&#160;


	村社　八幡社
	誉田別尊
	&#160;
	&#160;
	&#160;


	成岩町字大廻間　氏子120戸　例祭四月十六日


	&#160;
	山神社
	大山祗命
	若宮八幡社
	仁徳天皇


	波寄社
	素盞鳴命
	&#160;
	&#160;
	&#160;


	成岩町字天王瀬古　例祭六月十五日


	&#160;
	秋葉社
	味鋤高彦根命
	琴平社
	大物主命


	若宮八幡宮
	仁徳天皇
	&#160;
	&#160;
	&#160;


	成岩町字若宮　例祭八月十五日

 </description>
		<link>http://nansya.net/siryou/narawa/119</link>
			</item>
	<item>
		<title>知多半島　成岩各地の名称　成岩町史　書物編　その弐</title>
		<description>知多半島郡位置
さらに過去にさかのぼって、知多郡は神龜二年（西暦725年）に、本郷を 『蕃賀（はんが）郷』、『贄代（にえしろ）郷』、『富具（ふぐ）郷』、『但馬（たじま）郷』、『英比（あぐい）郷』の五郷としている。成岩はこの「中贄代郷」（半田から河和が含まれるようだ）に属している。
参考：尾張の国は八つの郡に分かれていた。
丹羽、葉栗、中島、海部、春日部、山田、愛智、知多
左は知多五郷推定図である。

贄代郷　神龜二年（西暦725年）

常滑領

「北條」
「瀬木」
「常滑」
「半田」
「成岩」
「垂水」

西枳豆志領

「西阿野」
「熊野」
「小場」
「檜原」
「刈谷」
「小鈴谷」
「坂井」
「廣目」
「市原」

東枳豆志領

「布土」
「富貴」
「東大高」
「大足」
「長尾」



尾張志では、本郷を二十四荘に分け、成岩は常滑庄の一村とされた。この時点では、「北荒居」、「西成岩」、「小板山」の三枝邑を有していると記されている。

成岩名称の由来

奈良浪殿　説
贄代郷は伊勢神宮に隷属していた。そして伊勢神宮の橋を渡って北に政所があった。その管理者が奈良浪殿であった。
奈良志村　説
万葉集中の和歌に「奈良志丘」大和龍田川東岸と読まれた。
鳴岩　説
英比川の埴土押し流されて岩につきたる地を「岩滑」と呼び、その下流に落ち入るところの岩に濁れて鳴る地を鳴岩と呼びたるなるべし、奈利伊波をつづめて奈利波となるを、また利を良に通わせて奈良波と呼ぶ
鳴浪　説
成岩城の腰から鳥出山の下は海水が浸入して、遠く板山邊までに及び、鳴動が甚だしく、鳴波と言ったのが、後に成岩に改められたのではないか。
「成岩は奈良輪なり」　説
地名辞典より。


成岩各地の名称の由来

板山
昔は本村から毎日工作に出かけていたのだが、その往復が困難なため板葺小屋をかけて住居するようになったらしい
瀬古
無量寺あたりは一つの丘陵で貝塚のあるべき地位である。前方に洲があって向山といっている。元は遠浅の瀬であったに違いない。コは沙という意味である。
粕江
小学校付近から東北、北薬師より北荒居に到る海岸をいう。これは貝殻を焼いて石灰を製造したところである。
塩垂
今の郷社（成石神社）の西に塩垂川があって、その付近を塩垂といっている。昔、塩田であったことをしめしている。
城ノ腰
榎本了圓（僧）の居城に因んだ名である。
長薮
小学校から第五区入り口に到る蕉県道の高付近をいう。往古榎本了圓が矢ガラに使用するために植えた竹薮の名残だといっている。
寺坊、寺内
無量寿寺が三河から引っ越してきたときにできたものだという。
任坊山
昔、奇僧覺明和尚のいたところである。
札之辻
字北家下県道東であって、昔から掲示場であった。


メモ
どうでもいいことかもしれないけど、昭和7年に知多鉄道（現在の名鉄に合併される）成岩駅が設けられることになった。北に半田駅、南に河和駅とはまさに名鉄河和線じゃないか…このときの記録によれば、わずか２２分で名古屋駅に達したそうな。いまより早いよ…ほんとかな、この話。いまの時計と違ったのかな？ </description>
		<link>http://nansya.net/siryou/narawa/117</link>
			</item>
	<item>
		<title>成岩町五区制　成岩町史　書物編　その壱</title>
		<description>半田市は昭和12年までは　知多郡半田町・亀崎町・成岩町に分かれており、その頃成岩の様子をうかがい知ることのできる成岩町史(昭和11年発行)という書物がある。今後の大いなる資料としてぜひ取り上げておきたい。
成岩町史には、巻頭に建造物や風景の写真が載っている。

	成岩町役場
	郷社　成石神社
	村社　成岩神社
	村社　白山神社
	村社　八幡神社
	村社　板山神社
	天龍山　常楽寺
	羽塚山　無量寺
	篠島山　安養寺
	鳥出観音堂
	成福山　大昌寺
	青龍山　雲澤寺
	成岩第一尋常高等小学校
	成岩町立公民青年学校
	成岩第二尋常小学校
	成岩幼稚園
	忠魂碑
	公札(×3)
	『野荒し　もの　村方　巳己明治二年』と書かれた角柱
	御用木
	御用木の碑
	成岩城址
	成岩ヶ浜
	成岩港
	新縣道
	神戸橋より成岩橋を望む
	成岩公園(ラジオ体操をしている)

成岩町五区制(明治22年市町村制）

メモ
成岩町史は昭和11年発刊の書物だが、さらに古い『成岩村手鑑』(元禄六酉年　荒尾六右衛門書上書と書いてあるが、意味が分からない）というものがあるようだ。成岩村から成岩町になったのは明治23年12月17日だとされている。
成岩町の位置
東経136度52　　北緯34度522 </description>
		<link>http://nansya.net/siryou/narawa/116</link>
			</item>
	<item>
		<title>成岩町史　壱　言伝え編</title>
		<description>半田市は昔　亀崎町・半田町・成岩町という地区に分かれており、それぞれ産業が盛んでありました。
当時の成岩町は、今の西成岩・板山も含めた地区だったそうですが、話は、さらに昔の成岩村だった頃までさかのぼります。

南組近辺、今の東組や西組の辺り(『馬場』：ばんば)は ほとんどが海でした。(『成岩神社』の東側に『波寄神社』という小さな社があります。そこまでが浜)
『成岩神社』を中心とする商いが盛んで、成岩の人口は『北村』にほぼ集中しており、その頃から『大獅子小獅子の舞』があったそうです。
北村から見て　南の村ということで『南組』になったと思われます。
今の『南憩いの家』は、『成岩神社』とほぼ同じ高さにあり、海ではなかったようです。

神戸川をはさんだ馬場には『成岩城』があり、その馬場だったことから、東組・西組の地域を馬場と呼んだわけですが、その『成岩城』を見張る場所として、『とりで観音』があったとされています。
この『とりで観音』けっこう大事なポイントになってくるような気配あり。

宝暦2年に初めて成岩神社に、現・南組南車創建とされています。宮本車と言われる理由です。(しかし、これははっきり断言できることではない、今でも続く難しい問題です。)

その後、開拓を重ね、人が移住し、南組にも馬場にも人口が増えてきました。
大正になって、北村、東馬場、西馬場が山車を持つようになり、現在の成岩3・4区の祭礼になりました。

北村は十分に人口と資金が揃っておりました。
彫刻は、高価な紫檀や黒檀、欅を使った彫常の作品ですが、当初の予算をはるかに超えてしまい、幕にまで資金が回らず、布、だったような気がします。
今のすばらしい『獅子と牡丹』の大幕はごく最近のものです。
（っていっても、二十年くらい前かな）

本当にすばらしい彫刻の色。他所組ながら、惚れ惚れします。
(メモ書き程度で失礼) </description>
		<link>http://nansya.net/siryou/narawa/115</link>
			</item>
	<item>
		<title>鶴ヶ崎のチャラボコ　2005年7月10日</title>
		<description>鶴ヶ崎のチャラボコは 伊勢湾台風　のとき以来　やり手途絶えてしまった
現在は　東松江のチャラボコにならって演奏している

ということで今回の調査は「東松江」へＧｏ！

しかし　調べていくと…
東松江も「西端」という地区から　伝わっているようだ
「千福」という地区も古くなかなか興味津々　（現在老人ばかりだーという話）

さらに！！！
チャラボコと祇園祭の　つながりもゲット！

祇園祭は京都の有名な祭りだが
なぜ…チャラボコ？

昔々京都にあるお公家さんが　おったそうな
そのお公家さんは　身を追われ岡崎に逃げてきたそうな

毎日毎日暇をもてあましていたこのお公家さん
岡崎の農民集めて　祇園祭を真似たお祭りを教えたそうな

そのお祭りがやがては　安城に伝わる
安城で　盛んになった「チャラボコ」は　各地に広がっていったが
岡崎は途絶えてしまった

安城から　この碧南に伝わり現在に至るそうな

しかし　この流れに乗らずに　蒲郡は独自にチャラボコを持っていたらしい…？？？

と　いうことで　今回は　こんなお話を聞けました。
チャラボコの写真も取れたし大満足です！

ま、実際　見て見なきゃなぁ… </description>
		<link>http://nansya.net/minami/tsuru/125</link>
			</item>
	<item>
		<title>考察…？ 2005年7月？日</title>
		<description>南組の草笛「みちゆき」は、 『吉浜道吹き』（よしはま　みちゆき）という曲を使っている。
消えた　戻り囃子は『鶴ヶ崎』

碧南　鶴ヶ崎
高浜　吉浜

共通するチャラボコ

また吉浜上組の神楽は、大浜上区から伝わったもの

また大浜上区か
三河か…　 </description>
		<link>http://nansya.net/minami/tsuru/126</link>
			</item>
	<item>
		<title>碧南鶴ヶ崎の囃子のルーツ　2005年6月30日</title>
		<description>鶴ヶ崎の方と　お話できるチャンスができましたー

会社の小島さんについていき　鶴ヶ崎区民館へ到着
初めての鶴ヶ崎の地に　興奮！！！

鶴ヶ崎の方々　　高須さん　小島さん　兵藤さん　に　お話を聞く

鶴ヶ崎の　囃子は　大きく分けて４つ
『山車囃子』　『巫女神楽』　『チャラボコ』　『三番叟』

南組の『鶴ヶ崎』と言う曲は
・『草笛』だったこと
・道行に使っていたこと（歩きながら演奏）
から『巫女神楽』と『チャラボコ』に可能性を感じた。

この日は『神楽』に焦点を当てての取材をしました

鶴ヶ崎の神楽は　とーんと昔　独自のものがあったらしいが絶えてしまったため
新たに　大浜上区の　神楽を　取り入れた
（これも相当昔で２世代以上昔の話）

大浜上区　角谷さんを　 紹介していただきお話を聞けました

大浜上区には　２０曲ほどの神楽が　ジゴトと共に残っている。
昭和６０年頃　角谷さんたち同志が　一冊の本にまとめてある。
２０曲ほどの中で鶴ヶ崎に伝わった曲は１０曲ほど
『みちゆき』『みやいり』『さがり神楽』などの　道中に使う曲ではなく
巫女神楽の一部だけである。

ガッカリしていると…

『ひゃひゃらい』という曲の解説の中に
『この曲は「みちゆきくずし」とも言われているけれど
実は　これが本来の「みちゆき」であった。
道中に　使うには難しすぎるので　
あらたに『簡単なみちゆき』現在の「みちゆき」が作られた』

そ…それは！！！！？？？
けっこうテンポが早めの曲だ…
かなりインパクトのある曲だ…
これは　現在巫女神楽として使われている…　
そしてなにより　鶴ヶ崎にも伝わっている曲だ！！！

角谷さんは『鶴』という言葉に　「すごもり」という曲が思いついたという
『すごもり』は　本名『鶴のすごもり』という名の曲で
尺八の曲にもなっているような　かなりメジャーなテーマみたいだ
一般的には　夫婦鶴だが　ここの『すごもり』は　雛も含めて３羽　
という話だったが　鶴ヶ崎には　伝わっていない曲

この日は　録音機材　まったくナシ

後日　改めて録音させてもらえるよう話をした。 </description>
		<link>http://nansya.net/minami/tsuru/124</link>
			</item>
	<item>
		<title>碧南　鶴ヶ崎　への距離　2005年6月19日</title>
		<description>半田博物館で　亀崎東組　宮本車　を展示するため
山車組立があると　聞きつけ　見学へ

見学していると
&#124;дﾟ)ｺｿｰﾘ

博物館の方から『２階から見てください』と言われてしまった…
ジャマだったのか…ごめんなさい…

東組の若者頭筆頭石田さんが　声をかけてくれた！
いろいろお話していくと…？？？

東組の旧車は『鶴ヶ崎』へ渡った　ということが話題に

南組の『鶴ヶ崎』が消えてしまった話
今度の『鶴ヶ崎』祭りの時に　稽古に伺うという話(知り合いが私の勤め先にいたので交渉済み）までしていると

石田さん「こちら『鶴ヶ崎』の高須さん　今日は偶然見学に来ていたみたいで…」
ｴｯ(ﾟДﾟ≡ﾟДﾟ)ﾏｼﾞ?

と　偶然にも　鶴ヶ崎の方を紹介していただけた。
これはラッキー☆
高須さんにも　簡単にお話を聞いてもらい　協力をお願いして
連絡先も教えてもらえた。

また一歩　近づいた　はず… </description>
		<link>http://nansya.net/minami/tsuru/123</link>
			</item>
	<item>
		<title>鶴ヶ崎調査のきっかけ　2005年5月…日</title>
		<description>南組には　祭礼中、 山車の中で演奏する『囃子』と『百度神楽』、
月次祭（毎月一日） 道行きに使う『吉浜』と（奉納用『神楽』がある
後付された（であろう）字言と共に　伝えられている

『鶴ヶ崎』という曲が消えてしまったということ…らしい

（後に分かることだが…消えてしまった曲は１曲だけじゃないんじゃないかーーー？という　話もチラホラ　）

言い伝えによると
『鶴ヶ崎という曲は　月次祭の　戻り囃子として　使っていた』　　　　そうな
『隣の'雷囃子'のような軽快な曲だった』　　 そうな
『何十年も前に　半田（雁宿）ホールで　この辺りの　神楽・囃子連が集まって
交流会みたいなことをしたときに　鶴ヶ崎の人たちが来ていて
『うちに鶴ヶ崎という曲があります』と　話したことがあった』　　 そうな
『なんとなく…でも　どうしても思い出せない…』　で悔しい思いで　亡くなっていった　　 そうな

と　村の名士は　私に伝えてくれた

なんとか『鶴ヶ崎』を復活させたい！！！　という名士の想いを胸に
私の鶴ヶ崎を探す旅　の　はじまりはじまり〜〜〜ぃ☆ </description>
		<link>http://nansya.net/minami/tsuru/122</link>
			</item>
	<item>
		<title>南組南車　解体-写真　半田成岩例大祭(平成20年)</title>
		<description>[gallery link="file"] </description>
		<link>http://nansya.net/minami/photo/182</link>
			</item>
	<item>
		<title>成岩南組南車の大きな大きな太鼓の毛が伸びーる</title>
		<description>[gallery link="file"]

毛根はいき続けているようだ </description>
		<link>http://nansya.net/minami/ura/98</link>
			</item>
	<item>
		<title>南組南車　本祭-動画　半田成岩例大祭(平成20年)</title>
		<description>善六角






打ち込み




 </description>
		<link>http://nansya.net/minami/photo/5</link>
			</item>
	<item>
		<title>南組南車　本祭-写真　半田成岩例大祭(平成20年)</title>
		<description>[gallery link="file"] </description>
		<link>http://nansya.net/minami/photo/177</link>
			</item>
	<item>
		<title>南組南車　宵宮-動画　半田成岩例大祭(平成20年)</title>
		<description>善六角






神社打ち込み




 </description>
		<link>http://nansya.net/minami/photo/4</link>
			</item>
	<item>
		<title>南組南車　宵宮-写真　半田成岩例大祭(平成20年)</title>
		<description>[gallery link="file"] </description>
		<link>http://nansya.net/minami/photo/170</link>
			</item>
	<item>
		<title>南組南車　木遣り-動画　半田成岩例大祭(平成20年)</title>
		<description>





音頭取りを囲むように円陣を組みます。
音頭とりの隣には「木打(黒)」と「綱割(赤)」が並びます。

音頭取りと合いの掛け合いの間は絶妙です。 </description>
		<link>http://nansya.net/minami/photo/97</link>
			</item>
	<item>
		<title>南組南車　組立～前夜祭　半田成岩例大祭　記録-写真(平成20年)</title>
		<description>[gallery link="file"] </description>
		<link>http://nansya.net/minami/photo/163</link>
			</item>
	<item>
		<title>乙川　3/23　半田　春の山車まつり(平成20年)</title>
		<description>[gallery link="file"] </description>
		<link>http://nansya.net/teku/march/153</link>
			</item>
	<item>
		<title>乙川-動画　半田　春の山車まつり 3/23(平成20年)</title>
		<description>





半田春の山車祭一番乗りの乙川祭
テンション上がってきます！ </description>
		<link>http://nansya.net/teku/march/697</link>
			</item>
	<item>
		<title>乙川　3/22_2　半田　春の山車まつり(平成20年)</title>
		<description>[gallery link="file"] </description>
		<link>http://nansya.net/teku/march/144</link>
			</item>
	<item>
		<title>乙川　3/22_1　半田　春の山車まつり(平成20年)</title>
		<description>[gallery link="file"] </description>
		<link>http://nansya.net/teku/march/127</link>
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