私の祭☆記録


第1輌:南組南車:成岩地区:半田市

第1輌:南組南車:成岩地区:半田市

祭礼日
4月第2土日
見所

成岩神社への打ち込み 善六角の出会い・曳き別れ

創建年

宝暦2年

主な彫刻
  • 壇箱 「馬師皇と龍」(立川和四郎富昌)
  • 脇障子 「松と鷹」「柘榴」(瀬川治助重光)
  • 持送り 「力神」(初代彫常)
  • 大幕 緋羅紗地の無地
  • 追幕 緋羅紗地に昇竜・雲の金刺繍
  • 水引 白羅紗地に龍の刺繍
三番叟
「舌出し三番叟」
祭囃子…能管使用
「遊神楽」「車切」「歌神楽」「早神楽」「大神楽」
祝い込み…草笛使用
「百度神楽」

木遣

全国各地で色々な木遣の形が残っている。
元々は建物の建前の儀式のときに唄われていたものらしく、祭の一部に取り入れるようになったのはごく最近のことで当山車組では「打ち出し前」「三番叟前」に唄われている

三番叟とは

三番叟とは、能、狂言の曲目の一つである。古くは、猿楽に父尉、翁、三番の舞があり、この内三番目の老人を指して三番猿楽と言われた。室町時代に父尉がなくなり千歳、翁、三番叟になり現在に伝えられ『式三番』とも言われる。江戸時代には、歌舞伎の一系統として『寿式三番』、『舞鶴三番叟』、『種蒔三番叟』、『操三番叟』、『舌出し三番叟』、『二人三番叟』等、多数の三番叟物が演じられるようになった。民間には五穀豊穣を祈る民俗芸能として形を変え伝承された。半田市内では祭礼行事として、各地区の宮本車の前棚においてからくり三番叟の舞を神社に奉納する。これは、前棚の後方から三人の操り者が前方からは見えないように笛、大鼓、小鼓、拍子木に合わせ舞わせる、かくれ三人遣いである。

(半田市立博物館 発行 「からくり」より)

南車の場合は、

  • 扇子(右手)+頭
  • 手(左手)+胴

の三人で一体の人形を舞わせる

囃子の補足

祭囃子とは 別に毎月の一日祭(月次祭=つきなみさい)では道吹き(みちびき)神楽(「オッピリヒャイト」「タカヤマ」「オマンネ」「ウヒャララ」「早神楽」)が奉納される

半田博物館 展示解説より

歴史について

昭和14年に山車の再建の際に作られた後方妻台輪の内側の墨書

宝暦2年(1752)建造
寛政9年(1797)文化2年(1809)、明治14年(1939)再建

幕について

大幕 猩々緋

半田市 成岩地区 南組南車 大幕

後幕 『南連中』の文字の金糸刺繍

半田市 成岩地区 南組南車 大幕 後ろ

水引 ベージュの羅紗地に龍の刺繍
  • 半田市 成岩地区 南組南車 水引 後ろ
    半田市 成岩地区 南組南車 水引 後ろ
  • 半田市 成岩地区 南組南車 水引 ハ通り
    半田市 成岩地区 南組南車 水引 ハ通り
  • 半田市 成岩地区 南組南車 水引 イ通り
    半田市 成岩地区 南組南車 水引 イ通り
追幕
  • 半田市 成岩地区 南組南車 追幕
    半田市 成岩地区 南組南車 追幕
  • 半田市 成岩地区 南組南車 追幕 裏
    半田市 成岩地区 南組南車 追幕 裏

これらの幕の箱書『文政四年己六月』の墨書。これは当時大阪大丸呉服店で五十両を投じて作ったという伝承が残されている。

当時の水引
  • 半田市 成岩地区 南組南車 当時の水引 イ通り
    半田市 成岩地区 南組南車 当時の水引 イ通り
  • 半田市 成岩地区 南組南車 当時の水引 後ろ
    半田市 成岩地区 南組南車 当時の水引 後ろ
  • 半田市 成岩地区 南組南車 当時の水引 ハ通り
    半田市 成岩地区 南組南車 当時の水引 ハ通り
当時の追幕

半田市 成岩地区 南組南車 当時の追幕
半田市 成岩地区 南組南車 当時の追幕

目や爪に銀の塗りの金属がついている。

半田市 成岩地区 南組南車 水引 目や爪に 銀の塗りの金属が ついている。
半田市 成岩地区 南組南車 水引 目や爪に 銀の塗りの金属が ついている。

当時の大幕の縁取り及び金具

文政4年に購入したといわれる大幕は、昭和14年に山車を改造した際、山車全体を大きくしたため、寸足らずになってしまったため。幕を大きくして合わせるため縁取りを取り付けたという。

半田市 成岩地区 南組南車 当時の大幕の縁取り及び金具
半田市 成岩地区 南組南車 当時の大幕の縁取り及び金具

現在の大幕縁取り及び留め具

現在の幕は

  • 大幕 (横幕、後幕) … 平成2年
  • 追幕 … 平成2年
  • 吹流し … 平成2年
  • 水引 … 平成14年
当時の水引のズーム

半田市 成岩地区 南組南車 当時の水引の拡大写真
半田市 成岩地区 南組南車 当時の水引の拡大写真

また水引も足りなくなった部分を村の有志の化粧まわしの一部を付け足した。

壇箱彫刻『馬師皇と龍』は裏面に『立川内匠富昌彫刻』の銘があり、前山太瓶束の力神とともに富昌の作品である。富昌は少なくとも文政・天保の2回にわたって当地方に逗留しており、これは天保期の作品と推定される。また、脇障子の『松に鷹』『猿に柘榴』をはじめ前山懸魚『費長房』等、数多くの瀬川重光の彫刻があり、これらは箱書から嘉永4年(1851)のものであると思われる。さらに大正3年(1914)に持送りの力神、大正9年に蹴込みの『五人囃子』を彫常が彫っている。宝暦2年(1752)建造の山車は恐らく乙川の宝暦型に近いものであったと推定されるが武豊町東大高の山車が寛政の頃の建造といわれるから、現在の形に近いものであったことも考えられる。少なくとも文化6年(1809)には創建から50年余り経過しており、鶴ヶ崎型に近いものが再建されたと思われる。以後昭和14年の改造まで山車の本体に改造が加えられていないと思われるので、現在の彫刻は鶴ヶ崎型の山車に付けられたものと考えてよいだろう。昭和14年の改造は、前山はそのままで、長さと高さを一回り大きく改造したのではなかろうか。

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