山車百輌総揃え | 南組南車michyウェブサイト「私の祭記録」 -祭・山車・囃子情報、各地の山車祭リポート- - Part 2

michyが所属する南組南車は、宝暦二年 成岩町(現・半田市成岩地区)に初めて創建された山車です。今から、250年以上の歴史ある山車、山車組に関連する情報を中心に、各地の山車祭情報を発信する個人管理のページです。あくまで個人的に製作したものなので、南組とは一切関係ありません。





第21輌:東組山王車:下半田地区:半田市

半田市 下半田地区 東組山王車
尾張の山車まつり 管理人 nova様より

祭礼日
4月中旬の土日
見所
知多半田駅前 JR半田駅前 AVIX前など 見所まんさい!
創建年
大正9年
大正14年 建造
(旧車は岩滑新田平井組から購入し、大正13年に売却)
主な彫刻
壇箱 「力神、王処仙人隠栖」(初代彫常)
脇障子 「源為朝」(初代彫常)
大幕 緋羅紗地に「琴高仙人」「費長房仙人」「蘆敖仙人」の刺繍
追幕 東雲橋と桜の刺繍
水引 緑地に松と鷹の刺繍

半田博物館 展示解説より

山車名の由来

  • 山王は日吉神社の別称である
    (しかし、下半田の氏神である業葉神社は大物主神とは直接関係がない。)
  • 三皇で、中国の故事にならい、業葉神社の祭神である応神天皇、仲哀天皇、神功天皇を三皇にみたてたものであろう

山車について

  • 下半田の祭礼は18世紀頃から山車3輌を曳いていた
  • 大正9年に市内岩滑新田平井組の山車を買請け東組として祭礼に参加
    (この山車は大正13年に南知多町師崎大井浜組へ売却し、大正14年に山車を新造)
    これより下半田の山車は4輌となった。

彫刻について

○初代彫常

  • 壇箱 力神と王処仙人穏栖
  • 脇障子の源為朝
  • 前山蟇股の龍と仙人

○二代目彫常

  • 蹴込み 竹に虎

特に壇箱両脇の力神は初代彫常が、亀崎中切組力神車の立川和四郎富昌の力神を意識して彫ったもので、数多い彫常の力神の中で異色の作品である。山車に関する資料は残念ながら伊勢湾台風で流失したため残っていない。

半田博物館 展示解説より

前棚人形『麾振り』
両手に持った麾を上下に振る。昭和55年、7代目玉屋庄兵衛の製作。


第20輌:中組祝鳩車:下半田地区:半田市

半田市 下半田地区 中組祝鳩車
尾張の山車まつり 管理人 nova様より

祭礼日
4月中旬の土日
見所
知多半田駅前 JR半田駅前 AVIX前など 見所まんさい!
創建年
元文以前
安政5年、明治5年に大改造されたが、現車は 大正3年 建造
主な彫刻
壇箱 「天の岩戸」(初代彫常)
脇障子 「神武東征」(初代彫常)
持送り 「波に千鳥」(初代彫常)
大幕 緋羅紗地の白捻糸怒濤群鵆
追幕 緋羅紗地に蘭陵王の刺繍
水引 濃緑地に千鳥の刺繍

半田博物館 展示解説より

祝鳩車の属する下半田の祭礼に山車が曳き出されたのは、少なくとも元文4年(1739)以前であり、その伝統は現在もなお伝えられているが、山車そのものは古くなると修理、改造を加えたり、彫刻を付け加えたり、あるいは他へ売却して新造する。従って、元文年間の山車が現在に伝えられているわけではない。半田型の山車が現在の型に落ち着いたのは、文政9年(1826)亀崎中切組力神車からである。
祝鳩車も現在判明しているだけで、安政年間(1854~59)明治5年(1872)と改造を繰り返したが、大正初めに他へ譲渡し、大正3年(1914)8月に新造したものである。『祝鳩車』の名は前山懸魚並びに桁隠しの彫刻と刺繍の図柄『昇鳩降鳩』による。
大幕は緋羅紗の表布に金糸・銀糸・白捻糸による波の刺繍。駒刺繍である。また、水引はもともと白無地であったが、濃緑地に千鳥の刺繍を施した。大幕、水引ともに下絵は池上秀畝で、新車の建造に先立って明治45年(1912)に製作したものである。
数多い彫刻のすべてが彫常(新美常次郎)一門の手によるもので、材は欅や桜、黒檀などである。蹴込、持送りは『波に千鳥』前山懸魚も『昇鳩・降鳩』などの鳥類、八枚虹梁は費長房の中国仙人、前山蟇股には七福神など縁起物が彫られているが、太瓶鰭をはじめ、壇箱『天の岩戸』、脇障子の『神武東征』など、神代物が多く彫られている。人物が中国物から神代物へと、時代を反映させながら移り変わっていく様子が見られる。
初代彫常(新美常次郎)は明治9年(1876)半田村の船大工伝蔵の次男として生まれた。父伝蔵は船大工のかたわら半田の南宋画家山本海荘の画廊も作っていたので、海荘との交流もあり、これが常次郎に影響を与えたという。14歳で名古屋の彫刻師早瀬長兵衛(八代目彫長・木龍堂)に弟子入りした。明治38年(1905)に亀崎中切組の力神車が大店坂で転覆し、彫刻も少なからず破損した。そこで明治38、39年にかけて大修繕が行われたのであるが、このときに修理に当たったのが、彫長で修行中の新美常次郎と、兄弟子の伊藤則光であった。力神車の彫刻はすべて立川和四郎富昌、立川常蔵昌敬の作であり、ここで常次郎と立川流彫刻との触れ合いが出来たものと思われる。その後亀崎田中組の彫刻修理なども手がけた。さらに、明治42年(1909)東京東本願寺の改築に当たって、全国の名匠とともに彫長の代理として十数名を引き連れて参加したことは有名である。時に常次郎は34歳であった。東本願寺で大きな成果をあげると、引き続き半田地方の山車彫刻を手がけることとなり、明治43年から45年にかけて乙川西山神楽車の壇箱や脇障子、蹴込などの彫刻を制作した。また、大正12年には協和砂子組の白山車の全彫刻を手がけた。
つづいて大正3年に完成した祝鳩車のすべての彫刻も彫常一門によるものであり、最も統一された構成美をもった、彫常の代表作と言われる。特に壇箱の『天之岩戸』の両脇の天之細命と思兼神との対比は支柱的構成として美しく、彫常の作品として傑作の一つである。
大正4年(1915)の長野善光寺仁王門建立の際には彫刻棟梁として腕をふるい、曹洞宗大本山永平寺総改築の時、大講堂欄間に彫られた彫刻もよく知られるところであり。
彫常の用いた欅材は立川一派と同じく木曽山脈の伊那谷川に育ったものである。この地の欅は木目が通り、色艶がよく彫刻には最適だといわれるが、現在は伐り尽くされてしまった。また、彫常が最も意を注いだのは”かため”(構成・組み立て)と荒彫りであった。従って仕上げはほとんど弟子にまかせたという。

半田博物館発行「からくり」より

上山人形『蘭陵王』
人形が持っている壺の中から蘭陵王が出て舞う。昭和五十六年、七代目玉屋庄兵衛の製作。

前棚人形『太平楽』
雅楽曲太平楽に合わせて甲


第19輌:南組護王車:下半田地区:半田市

半田市 下半田地区 南組護王車

祭礼日
4月中旬の土日
見所
知多半田駅前 JR半田駅前 AVIX前など 見所まんさい!
創建年
元文以前
現車は明治41年に建造
(旧車は 明治14年に美浜町布土へ譲渡)
主な彫刻
壇箱 「護王の夢物語」(初代彫常)
脇障子 「新田義貞・児島高徳」(初代彫常)
持送り 「力神」(初代彫常)
大幕 緋羅紗地の無地
追幕 五色の凡帳
水引 花色羅紗の表布に鶴の群舞の刺繍

半田博物館 展示解説より

下半田業葉神社の祭礼には、18世紀初頭のころすでに山車3輌を曳いていたことは、同社の文書によっても察せられるが、そのうち上山に『恵比寿』を乗せていたというのが、この護王車の前身であろう。その山車か、あるいはその後に新造した山車かはわからないが、明治14年に旧車を美浜町布土に譲り、明治41年に新造したのが現車である。

山車本体は阿久比町横松の宮大工『江原新助』の手によるもので、主要彫刻は『力神』壇箱の『護王の夢物語』、脇障子の『新田義貞・児島高徳』等、大部分の彫刻は初代彫常『新美常次郎』の作、。蹴込の『一笑の図』は二代目彫常『新美茂登司』の作であったが、布土へ譲渡したため、改めて彫常が手がけたもので、彫常の力作の一つである。これ以来壇箱の持送りが従来の『角つなぎ』から『力神』へと一般化していった。

水引の刺繍は『鶴の群舞』で、下絵は織田杏斎の作、追幕は他に例のない『五色の几帳』である。また、前山人形は『巫女舞』の糸からくりで、六代目玉屋庄兵衛の大正7年の作、上山人形は『恵比寿大黒』であるが、現在恵比寿大黒は休演している。

半田博物館発行「からくり」より

前棚人形『巫女の舞』
大正7年、六代目玉屋庄兵衛の製作


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