第4輌:東組旭車:成岩地区:半田市
- 祭礼日
- 4月第2土日
- 見所
- 成岩神社への打ち込み
- 善六角の出会い・曳き別れ
- 創建年
弘化3年
大正11年 上半田北組から譲渡された山車を改造して現在に至る(立川和四郎富昌の彫刻作品は残して)- 主な彫刻
- 幕
半田博物館 展示解説より
大正11年より上半田北組より山車の譲渡を受け、以後祭礼に山車を加えることとなった。しかし、上半田北組の旧車は弘化3年(1846)の建造であるため、その後まもなく立川和四郎富昌の壇箱彫刻”唐子遊びと鶏”、脇障子彫刻”鉄拐仙人・蟇仙人”等 数点をはずし、改造した車体にそれらを取り付けた。その後更に初代彫常こと新美常次郎によって前山蟇股の”恵比寿・大黒”、持送りの龍などが追加され、充実していった。普通出しの前山の屋根は二手先枓栱で桁を支えるが、旧上半田北組唐子車が一手先であったのであろうか、当旭車も一手先で受けているため、四天柱の間口は広くとれるものの、やや脇障子の幅が狭まる。しかし一方では前面の蟇股が広くとれて前山を引きたたせる。また、尾垂木にも彫刻を施したり、台輪の前方も木鼻に加工するなど、各種の彫刻が巧みに調和している。
前山県魚の”鶴の巣篭り”や前山紅梁の龍の浮彫りは肉厚のある重厚な彫りで、初代彫常の中でも傑作の一つである。
諏訪の立川和四郎富重は甥の常蔵昌敬とともに何度も来半しているが、弘化3年(1846)には上半田北組の唐子車と南組福神車に彫刻を入れている。富重と富昌は共同の作が多いが、当旭車の場合は、壇箱が富昌、また脇障子が昌敬によって彫られた可能性が強い。
大幕には緋羅紗の無地で縁取りがある。後幕は金銀糸による”旭車”の刺繍、追幕は緋羅紗地に太陽と波の刺繍、水引は緑地に白鶴の刺繍がそれぞれ施されている。
(写真提供:半田 協和 加藤様)