成岩町史 壱 言伝え編
2008年5月3日 追加
半田市は昔 亀崎町・半田町・成岩町という地区に分かれており、それぞれ産業が盛んでありました。
当時の成岩町は、今の西成岩・板山も含めた地区だったそうですが、話は、さらに昔の成岩村だった頃までさかのぼります。
南組近辺、今の東組や西組の辺り(『馬場』:ばんば)は ほとんどが海でした。(『成岩神社』の東側に『波寄神社』という小さな社があります。そこまでが浜)
『成岩神社』を中心とする商いが盛んで、成岩の人口は『北村』にほぼ集中しており、その頃から『大獅子小獅子の舞』があったそうです。
北村から見て 南の村ということで『南組』になったと思われます。
今の『南憩いの家』は、『成岩神社』とほぼ同じ高さにあり、海ではなかったようです。
神戸川をはさんだ馬場には『成岩城』があり、その馬場だったことから、東組・西組の地域を馬場と呼んだわけですが、その『成岩城』を見張る場所として、『とりで観音』があったとされています。
この『とりで観音』けっこう大事なポイントになってくるような気配あり。
宝暦2年に初めて成岩神社に、現・南組南車創建とされています。宮本車と言われる理由です。(しかし、これははっきり断言できることではない、今でも続く難しい問題です。)
その後、開拓を重ね、人が移住し、南組にも馬場にも人口が増えてきました。
大正になって、北村、東馬場、西馬場が山車を持つようになり、現在の成岩3・4区の祭礼になりました。
北村は十分に人口と資金が揃っておりました。
彫刻は、高価な紫檀や黒檀、欅を使った彫常の作品ですが、当初の予算をはるかに超えてしまい、幕にまで資金が回らず、布、だったような気がします。
今のすばらしい『獅子と牡丹』の大幕はごく最近のものです。
(っていっても、二十年くらい前かな)
本当にすばらしい彫刻の色。他所組ながら、惚れ惚れします。
(メモ書き程度で失礼)