知多半島 成岩各地の名称 成岩町史 書物編 その弐
2008年5月3日 追加
知多半島郡位置
さらに過去にさかのぼって、知多郡は神龜二年(西暦725年)に、本郷を 『蕃賀(はんが)郷』、『贄代(にえしろ)郷』、『富具(ふぐ)郷』、『但馬(たじま)郷』、『英比(あぐい)郷』の五郷としている。成岩はこの「中贄代郷」(半田から河和が含まれるようだ)に属している。
参考:尾張の国は八つの郡に分かれていた。
丹羽、葉栗、中島、海部、春日部、山田、愛智、知多
上の図は知多五郷推定図である。
贄代郷 神龜二年(西暦725年)
常滑領
- 「北條」
- 「瀬木」
- 「常滑」
- 「半田」
- 「成岩」
- 「垂水」
西枳豆志領
- 「西阿野」
- 「熊野」
- 「小場」
- 「檜原」
- 「刈谷」
- 「小鈴谷」
- 「坂井」
- 「廣目」
- 「市原」
東枳豆志領
- 「布土」
- 「富貴」
- 「東大高」
- 「大足」
- 「長尾」
尾張志では、本郷を二十四荘に分け、成岩は常滑庄の一村とされた。この時点では、「北荒居」、「西成岩」、「小板山」の三枝邑を有していると記されている。
成岩名称の由来
- 奈良浪殿 説
- 贄代郷は伊勢神宮に隷属していた。そして伊勢神宮の橋を渡って北に政所があった。その管理者が奈良浪殿であった。
- 奈良志村 説
- 万葉集中の和歌に「奈良志丘」大和龍田川東岸と読まれた。
- 鳴岩 説
- 英比川の埴土押し流されて岩につきたる地を「岩滑」と呼び、その下流に落ち入るところの岩に濁れて鳴る地を鳴岩と呼びたるなるべし、奈利伊波をつづめて奈利波となるを、また利を良に通わせて奈良波と呼ぶ
- 鳴浪 説
- 成岩城の腰から鳥出山の下は海水が浸入して、遠く板山邊までに及び、鳴動が甚だしく、鳴波と言ったのが、後に成岩に改められたのではないか。
- 「成岩は奈良輪なり」 説
- 地名辞典より。
成岩各地の名称の由来
- 板山
- 昔は本村から毎日工作に出かけていたのだが、その往復が困難なため板葺小屋をかけて住居するようになったらしい
- 瀬古
- 無量寺あたりは一つの丘陵で貝塚のあるべき地位である。前方に洲があって向山といっている。元は遠浅の瀬であったに違いない。コは沙という意味である。
- 粕江
- 小学校付近から東北、北薬師より北荒居に到る海岸をいう。これは貝殻を焼いて石灰を製造したところである。
- 塩垂
- 今の郷社(成石神社)の西に塩垂川があって、その付近を塩垂といっている。昔、塩田であったことをしめしている。
- 城ノ腰
- 榎本了圓(僧)の居城に因んだ名である。
- 長薮
- 小学校から第五区入り口に到る蕉県道の高付近をいう。往古榎本了圓が矢ガラに使用するために植えた竹薮の名残だといっている。
- 寺坊、寺内
- 無量寿寺が三河から引っ越してきたときにできたものだという。
- 任坊山
- 昔、奇僧覺明和尚のいたところである。
- 札之辻
- 字北家下県道東であって、昔から掲示場であった。
メモ
どうでもいいことかもしれないけど、昭和7年に知多鉄道(現在の名鉄に合併される)成岩駅が設けられることになった。北に半田駅、南に河和駅とはまさに名鉄河和線じゃないか…このときの記録によれば、わずか22分で名古屋駅に達したそうな。いまより早いよ…ほんとかな、この話。いまの時計と違ったのかな?